「ばんちょうさん」。8月18日に77歳で亡くなった俳優の辻萬長さんの名は「かずなが」と読むけれど、多くの演劇関係者は親しみを込めて「ばんちょうさん」と呼んでいた。ご本人も「『かずなが』と呼ぶのは親戚くらいだから、『ばんちょう』でいいですよ」とこだわらなかったし、もともと父親が「萬物の長」から「萬長」と名付けたという。舞台「ピアフ」などで共演した大竹しのぶも「ばんちょうさん」と呼んでいた。自身のインスタグラムで「ばんちょうさんにもう逢えないなんて、信じられません」「みんな、みんな、悲しんでるよ」としのんだ。

佐賀高校で演劇部に入ったのが俳優人生の始まりだった。もともと舞台装置作りに興味を持ったが、男子生徒が少なく、舞台に借りだされて、演じることの楽しさを知った。1年後輩に村井国夫がいた。辻さんは高校卒業後に俳優座養成所に入ったが、村井も1年遅れで続いた。

若いころは映画やドラマで軍人役などが多かったが、40代からは舞台出演が増えて、日本の演劇界を代表する劇作家、演出家に愛された。

井上ひさしさんが主宰した「こまつ座」に唯一の俳優として長年所属し、「人間合格」「シャンハイムーン」「きらめく星座」「雨」「黙阿彌オペラ」「円生と志ん生」「ムサシ」など数多くの作品に出演した。井上さんは遅筆で知られ、台本完成はいつも遅れた。稽古場の辻さんは数枚ごとに届く台本を読み込んで、的確に自らの役を作りあげ、井上さんも全幅の信頼を寄せた。

蜷川幸雄さんも「リチャード三世」「ヘンリー四世」などシェークスピア劇に起用した。最後の演出作品「尺には尺を」にも出演した。蜷川さんの葬儀の日に、辻さんは稽古場にいた。「自分は稽古を続け、蜷川作品をより深める」と。葬儀から9日後の初日。カーテンコールで辻さんは泣いていた。蜷川さんにささげる、こん身の演技だった。

最後の出演舞台は、昨年7月の三谷幸喜さん作・演出「大地」。三谷作品初登場だった。コロナ禍で演劇公演が3月から中止となる中、7月に本格的な演劇再開の第一弾として上演された。演劇を禁止された国の収容所を舞台にした作品で、辻さんはシェークスピア劇を専門とする老俳優を演じた。ラスト近く、辻さんに「観客なしには演劇は成り立たない」というせりふがあった。三谷さんが辻さんに託した演劇の原点を問う重いせりふは、当時の演劇人、観客の共通した思いでもあった。

三谷さんが脚本を手掛ける来年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に出演予定だった。小栗旬演じる主人公北条義時の祖父伊東祐親で、昨年11月にキャスト発表された時は「久しぶりの大河ドラマ。それも僕への当て書き。これほどワクワクさせるものはない」と意気込んでいた。しかし、7月にがん闘病を公表して降板した。15作目の大河出演になるはずだった。【林尚之】(ニッカンスポーツ・コム/芸能コラム「舞台雑話」)