あの人の教えがあったからこそ今がある。北海道にゆかりある著名人たちの、転機となった師との出会いや言葉に焦点をあてた「私の恩師」。サッカー元日本代表でW杯3大会を経験したコンサドーレ札幌MF稲本潤一(35)は、G大阪ジュニアユース、ユース時代に指導を受けた上野山信行氏(57=現G大阪アカデミー本部・強化本部担当顧問)の教えについて語った。

 ちょうど、ジュニアユースの日本代表に入った時期だったんですが、僕はその時点でここまでくればという、満足感があったんでしょうね。でも、上野山さんには、いつも「それ以上を目指せ」「とにかく世界に出て行け」「常に世界を目指して練習しろ」と言われました。

 当時は一般的にJリーグから海外のクラブにいくという感覚があまりなかったですし、日本もまだW杯に出ていないころです。周りの環境も今とは違っていたんですが、そういうことを、すぐ近くにいる人が言ってくれたというのが、僕が世界を意識するきっかけになりましたね。

 海外に出て行くときには、やるべき11項目のことを手紙でもらい、中でもまず英語を覚えることと、現地の新聞を読むようにと伝えられたのを覚えています。そういう教えは、今でもとても役に立っていると思ってます。

 人としての接し方についても気をつけるように、常に言われてました。ジュニアユースのころ、もう「ガンバを背負っているのだから、人として最低限のマナーを守るように」と自覚をうながされました。特にあいさつとか。僕にとっての先生という印象です。学校の先生より接する時間が長かったし、説得力のある人でした。上野山さんに出会っていなかったら、プロになれてたかどうかも分からないですし、あのときの教えがあったからこそ、今の自分があると思っています。

 サッカー指導の部分では、とにかく基本的なことをたたき込まれました。止めて蹴る、という反復練習。インサイドキック、インステップキック、止める角度、止める位置を繰り返しやらされていたのが、すごい記憶にありますね。「細かいところまで意識してやれ」というのは、すごく言われましたね。すごく威圧感があって、雰囲気もあって、一番はやっぱり上野山さん自身が、ボールを使うのがうまかった。そして怖かった。そういう印象もあって、心理的にも教えを受け入れる態勢になっていたというのは、ありますね。

 30代になった今でも、基本的なプレーが、一番重要だなと、忘れずにやっています。中学高校で習ってきたことの大切さに、最終的には返るんだなと感じていますね。サッカーに対しての考え方、方向性は多少違ってくるかもしれないけど、技術的なことは、子供のころにやってたところに立ち返っているし、そこをきっちりやることが、いつもの練習の第1歩になってますよ。【取材・構成 永野高輔】

 上野山氏 中1の後半ぐらいから「世界に飛んでいけ、世界で活躍するようになっていこう」とよく話してました。「Jリーグは通過点だから」と。当時はペレが神様で、16歳で世界デビューをしていたので「それを追い越す選手になれ」と話していました。21歳で海外にいくときには、手紙を渡しました。11項目ぐらい、向こうでやるべきことをかいて。とりあえず「英語をしゃべれるようになれ」と書いたかな。試合に出るにも練習するにもまずコミュニケーションが大事。そんなメッセージを送りました。今伝えたいのは、J2であっても、やれるというのはいいこと。初心を忘れずに。原点に立てば、つらいことも忘れられる。周りの方々にしてもらったことを覚えておく、ということですね。

 ◆稲本潤一(いなもと・じゅんいち)1979年(昭54)9月18日、鹿児島県生まれ。G大阪ジュニアユース、ユースと進み高校3年でJデビュー。01年夏にアーセナルに移籍し、欧州の7クラブでプレー。日本代表で国際Aマッチ82試合5得点。181センチ、75キロ。夫人は女優の田中美保。