あの人の教えがあったからこそ今がある。北海道にゆかりある著名人たちの、転機となった師との出会いや言葉に焦点をあてた「私の恩師」。選手時代、高校野球で、北海道に初めて深紅の大優勝旗を持ち帰った駒大苫小牧の佐々木孝介監督(28)には、追い続ける背中がある。04~06年と同校を3年連続夏の甲子園決勝に導くなど一時代を築いた香田誉士史氏(44=現西部ガスコーチ)だ。雪上ノックの衝撃、降雨ノーゲーム翌日の甲子園敗退、そして翌年の初優勝。自身の高校3年間を「劇場みたい」と振り返った青年監督は、恩師と紡ぐドラマの続きを、信じている。

 一番印象に残っている香田先生の言葉は「やって、やれないことはない」。高1の冬、練習で雪上ノックを受けていた時、自分自身に暗示をかけるように言い続けていた。僕が主将になり、新チームになって初めてのミーティングで話したフレーズも、そう。その言葉を口にしている時の姿や表情を、今でも鮮烈に覚えているんですよね。現在も、指導者としての僕のベースになっています。

 とんでもなく負けず嫌いな人です。試合前のノックでも、相手チームがいるのに「勝つのは俺たちだ」とか言いながら打つんですよ。この監督についていけば、必ず甲子園で勝てるという自信はあった。僕たちも、練習試合ですら「負けられない」ではなく「負けはない」という日々を過ごしてきたので。

 自分の高校時代を振り返ると、甲子園で降雨ノーゲームで勝ち試合を落としたり(03年夏)、翌年に初勝利から優勝も経験して、何か劇場みたいじゃないですか? 04年夏、甲子園初戦となった佐世保実(長崎)との試合前、監督が甲子園で負けていった卒業生の手紙を読んで泣いていたんです。試合に勝って、初勝利のウイニングボールを手渡した時の笑顔は、忘れません。

 指導者を志したのは、高2の夏。ノーゲーム翌日の再試合で負けた後、監督が全員に「申し訳ない」と頭を下げて、20分ほど思いをぶちまけてくれた。「こんなに僕たちのことを思ってくれていたのか」と。愛情を感じたし、もっと早く監督の気持ちに気付いていたらと悔しくて。卒業しても、母校へ戻って、香田監督の下で野球をやりたい。先生の作るチーム、思い描くチームの輪の中に、自分も居たい。そう、強く思ったんです。ずっと、監督と関わっていくことを望んでいたんですね。だから、少し形は違いますが、今の僕は幸せだと思います。

 母校の監督になって、今年で6年目。そろそろ、九州に香田先生を訪ねて、5年分の話をしたい。僕が監督1年目の時、1度だけ、グラウンドに来たことがあるんですけど、なぜか電信柱に隠れて見ている。ノックを打っている時に視線を感じてチラッと見たら、サッと隠れた(笑い)気遣いの人。試合でも外野スタンドの奥の方とか、そういう所で見ているんですよね。

 昨春のセンバツで僕が監督として初めて甲子園へ行った時は「自分の目で見て、肌で感じて、勉強しろ」と言われました。甲子園出場ではなく、まずは、甲子園の決勝の舞台に立って、本当の意味で「(チームを)任せた」と言ってもらえるようにならないと、僕自身、ここの監督になった意味がない。現在、香田先生は社会人野球に携わっていますが、いつか甲子園で、先生のチームと対戦できたら。そういう願望は、ありますね。【取材・構成 中島宙恵】

 香田氏 顔はいいし、スタイルもいい。だけど純粋で、泥臭い部分もある。入学してきた時から、チームリーダーの素質はありました。性格は優しいけど、勝負になると「生ぬるいプレーはダメ」と、同級生に言える厳しさもあった。甲子園初勝利のウイニングボールをもらった時は、めちゃめちゃうれしかったなぁ。今、孝介に甘いことは一切、言わない。でも、孝介が監督として甲子園の決勝へ進んだら、俺はその姿を見て泣くだろうね。歴史をつくる勝利をもたらす、そんな監督になって欲しい。

 ◆佐々木孝介(ささき・こうすけ)1987年(昭62)1月10日、余市町生まれ。駒大苫小牧では1年秋から内野のレギュラーで2年春夏と甲子園出場。3年時は主将として、夏の甲子園で道勢初優勝を飾った。駒大を経て09年4月に母校のコーチに。同年8月に監督に就任し、昨春のセンバツで初めて甲子園で采配を振るった。家族は夫人。