あの人の教えがあったからこそ今がある。北海道にゆかりある著名人たちの、転機となった師との出会いや言葉に焦点をあてた「私の恩師」。カーリング女子で14年ソチ五輪に出場した北海道銀行の小笠原歩(37)には、常呂福山小(現在閉校)時代の担任だった山宮喬也先生(80)と遠藤省三先生(67)の教えが原点にある。世界の舞台で遺憾なく発揮される創造性とやり遂げる意志の強さは、北見市常呂の自然に抱かれながら育まれたものだった。

 山宮先生が担任になったのは小1の時です。ヤー先生と言われていてみんなからすごく親しまれていました。とにかく優しい人。通っていた常呂福山小は、小さな学校で全校生徒を数えても10人くらいしかいません。だから複式学級で2学年が一緒。勉強もマンツーマンだから個人授業みたいで、すぐ勉強もできちゃう(笑い)。そんな環境の学校でした。

 勉強だけじゃなく、いろんなことを経験させてくれました。図工の時間は、裏山に枝を取りにいくんですね。それで動物を作るんですが、テーマは無いんです。さまざまな形をした小枝を見て想像して、接着剤とかで組み合わせながらこの枝ならどんな動物が作れるか? 創造性を養ってくれました。他にも川に森に、と行きました。何でも興味を持たせてくれるような教え方でしたね。

 絵が上手で「こうやって書くんだ」といつも手ほどきしてくれました。才能があったかどうかは分かりませんが、コンクールに何度も応募してくれて。おかげで賞をもらえるくらいになりました。考える力、想像力を養ってもらいました。カーリングの戦術を考えることにつながってるかもしれませんね。

 ヤー先生は小3の時に他の学校に転勤になってしまったんですが、その時にミッキーマウスの切り絵を作って、ありがとうございました、と送ったんですね。14年ソチ五輪が終わって、お礼状を先生に送ったら、お返しに送ってきてくれたはがきにその切り絵の写真がプリントしてありました。まだ持っていてくれたんだとうれしかったですね。06年のトリノ五輪の時も、はがきを送ってきてくれて、1つ1つの言葉がありがたくて読んだ瞬間、もうボロボロでした。

 人と争うことが嫌いな先生。そういう心を教えてもらいましたね。悪いことは悪いんだと。知性とか理性を教えてもらった。それは今も自分の根底にあります。カーリングは争いごとではなく勝負。昔、先生になりたいとずっと思っていたのはヤー先生の影響です。

 いまでも年賀状のやりとりをしているので、あの頃をいつでも思い出せます。だから頑張れるんだと思います。戻る場所があるのは大きい。一番楽しかった時代が小学校だった。怒られたことはあったんでしょうが忘れさせてくれる包容力がありました。

 ヤー先生が「父親先生」なら小4からの担任だった遠藤先生は「友だち先生」ですね。私はスポーツ大会とかは大嫌いだったんですが、ゲームが大好きだったんです。先生の家に遊びに行ってはゲームをしていましたよ。1つのことに集中することは先生に教えてもらいました(笑い)。

 日記、宿題を自主的にやらせる先生で、それをやると○をくれる。それがほしくて(笑い)。漢字の練習とかも自主宿題みたいにやっていましたね。当時、岡山出身だった先生にちなんだ「桃太郎通信」という学級通信を毎日出していました。

 ノートサイズのものだったんですが、細かい1日のことを全部、書かれてお母さんに怒られたりして。今ではいい思い出なんですが、誕生日には手形をして臨時号を出したり。それを全部先生が1人で書くんです。毎日のものと合わせたら370枚近くになって。それを学年の最後に製本して配ってくれるんです。

 自由にやらせてもらいつつ「自分の決めたことは最後までやりましょう」という感じ。諦めたりすると「あゆみがやるっていったんでしょ?」と言われました。やり遂げることは競技にも通じます。競技復帰とかも自分で決めたし、スキップでラストの1投の決断もそう。やり遂げないといけないと、今でも思っています。

 2人に頑張っている姿を見せられるのはカーリングしかないですが、やり続けてきたからこそ、その姿を見せられる。五輪に行ったことで、少しは感謝を伝えられているのかな。18年平昌五輪でもそういう姿を見せられればと思います。(おわり)【取材・構成 松末守司】

 常呂福山小時代に担任だった遠藤先生 小学校時代は活発で明るい子でしたね。勉強もよくできました。運動神経が悪かったわけではないですが、まさかカーリングで五輪に出るほどになるとは思わなかった。両親が競技をやっていた影響なのかな。なかなか会えないので活躍をテレビとかで目にできるのは本当にうれしいですね。五輪を見て、今でも頑張っているんだなぁ、と頼もしかったですね。

 ◆小笠原歩(おがさわら・あゆみ)旧姓小野寺。1978年(昭53)11月25日、常呂町(現北見市)生まれ。札幌学院大卒。競技は12歳から始める。五輪は02年ソルトレークシティーで初出場。06年トリノ五輪出場後に結婚し、09年出産。10年に船山(旧姓林)弓枝とともに現役に復帰。2大会ぶりに出場した14年ソチ五輪は5位。日本選手団の旗手も務めた。スキップ。155センチ。