04年2月、落語芸術協会5代目会長に就任した桂歌丸さん(当時67)をインタビューした際の言葉です。亡くなる2週間前まで高座を務め、自らの理想をまっとうした落語家人生。11日に行われたお別れの会で、歌舞伎俳優中村吉右衛門さん(74)が「師匠、勝ち逃げはずるいよ」と涙でうらやみましたが、同感です。落語界に大貢献し、「死んで目をつぶる時に楽になりてえ」というあの時の夢は果たされたのではと、歌丸さんに追加取材したい気持ちになりました。

 人並み外れた落語へのまじめさと責任感による偉業であったのはもちろんのこと、ロングインタビューを通して分かったのは、何ごともとことんやりたがる歌丸さんの性質です。

 趣味の釣りでは、釣れないとどこまでも上流へ行ってしまうタイプ。よく分からない山奥まで踏み込んでしまい、クマに追いかけられたり、滝つぼに落ちたり。日本の魚の生態系を壊すブラックバス放流の裏には陰謀があるとし、「どの政治家がかかわったのかを絶対に突き止めて、徹底的に追及する」と息巻いていました。多忙でなければ本当に生涯をかけて追求していたと思います。そんなとことん精神が「歩いて座布団に行けるうちはやり続けますよ。人が嫌がろうが。わがままだから」というスピリッツに重なるのです。

 色街だった横浜・真金町の遊郭「富士楼」の一人息子というスペシャルな生い立ち。落語家なら誰もが手に入れたい“和の粋”が体に染みついている人でした。10人の遊女を束ねていた祖母の女傑ぶり、18歳からの遊郭遊び、富士楼なき後の一文無し生活など、あの話芸で語られる希有(けう)なエピソードの数々は、まるで歌丸オリジナルの古典落語のような聞き応え。小学4年の時、ラジオで聞いた落語の面白さに心を奪われて落語の道へ。「育った環境も、遊びという陽の世界だからなおさらね」。はたから見ても、天職だったのだと思います。

 インタビュー時、落語界は古今亭志ん朝、柳家小さん、春風亭柳昇、桂文治らスーパースターを相次いで亡くしていた時期でした。「大損失ですよ。あたしたちの商売はすぐに次をこしらえることができない。今いる噺家たちが踏ん張らないと」。若者の寄席離れが伝えられてもいましたが「若い人いっぱいいるよ。見てごらんよ。あなたが知らないだけだ」と明快でした。

 「落語を残すのも、落語のお客さんを残すのも、みんな落語家の責任」。その言葉の通り、落語も、落語のお客さんもちゃんと残しての幕。人間力とはこういうものだと痛快で、取材できて本当に幸運でした。

【梅田恵子】(B面★梅ちゃんねる/ニッカンスポーツ・コム芸能記者コラム)