上方落語界の大御所で、落語家で初めて文化勲章を受章した人間国宝の桂米朝(かつら・べいちょう)さん(本名・中川清=なかがわ・きよし)が19日午後7時41分、兵庫県尼崎市内の病院で肺炎のため亡くなった。89歳。衰退していた上方落語を復活させ、故6代目笑福亭松鶴さん、故5代目桂文枝さん、3代目桂春団治と「四天王」と呼ばれた。テレビの司会やラジオの語りでも親しまれた。

 一門関係者によると、昨年初めごろまで兵庫県内の自宅で弟子らと談笑、晩酌を楽しみながら穏やかに過ごしていたが、その後、入院生活が続いていた。

 約2年前、兵庫県内の自宅で高熱を出し嘔吐(おうと)を繰り返して緊急入院した。誤嚥(ごえん)性肺炎と診断され、その後も高熱、嘔吐が続いたが、奇跡的な回復を見せ、自宅へ戻った。今年1月下旬、危篤状態になったが回復した。状態を安定させる手術、治療などを受けたが、意識はあいまいな状態が続いていた。2月下旬ごろから衰弱が激しくなったという。

 通夜は24日午後6時から大阪府吹田市桃山台5の3の10、千里会館で。葬儀・告別式は25日午前11時から同所で。喪主は長男の5代目米団治(よねだんじ)さん。

 学生時代に寄席、演芸に傾倒した。47年に4代目桂米団治に入門し、3代目桂米朝を名乗った。演じられなくなっていた上方落語の古典演目を発掘し、現代向けに構成。故6代目笑福亭松鶴さんらとともに「四天王」と呼ばれ、衰退していた上方落語を再興させ、全国に広めた先駆者だった。

 「たちぎれ線香」「百年目」などを得意とした。門下は故桂枝雀さん、ざこば、南光ら故人を含め約70人。96年に柳家小さんに続き、関西の落語家として初めて人間国宝に認定され、09年に落語家初の文化勲章を受けた。

 端麗な容姿と同じように語り口も端正で上品だった。伝統的な「船場ことば」を駆使し「ほんまの大阪弁は角がない(滑らか)んや」と、言葉には強くこだわった。

 最後の舞台出演は13年1月2日に大阪市内で開かれた「米朝一門会」。昨年1月2日の「一門会」では舞台にこそ上がらなかったが楽屋見舞いに訪れ、元気な姿を見せた。ざこば、南光ら弟子や孫弟子、やしゃご弟子にまで囲まれ、好物の甘味をほおばりながら談笑していた。

 13年秋ごろから米団治が米朝落語全集の改訂に取り組み、米朝さんと昔話を重ねることがあり、怒られたこともあったという。「卒寿(数えで90歳)って、そろそろ人間も卒業ですね言うたら、えらい怒られました」。

 脳梗塞や脳幹梗塞を患うなど闘病もあったが、いずれも克服した。自宅などで転倒して腰の骨を折ることもあったが、何度もよみがえってきた。

 02年に高座引退を宣言したが、落語会で思い出話をもとにした「よもやま噺」は口演してきた。最後まで落語界のことを考え、戦後は十数人にまで没落しかけていた上方落語家を、いまや200人を超える大所帯に発展させた大功労者だった。

 ◆桂米朝(かつら・べいちょう)本名中川清(なかがわ・きよし)1925年(大14)11月6日、旧満州大連生まれ。30年に帰国して兵庫県に住む。43年に上京。終戦後は復学せず神戸市で会社勤め。47年に4代目桂米団治に入門、3代目桂米朝を名乗る。72年に第1回上方お笑い大賞(大賞)受賞。87年に紫綬褒章受章。96年に重要無形文化財保持者(人間国宝)認定。09年に文化勲章を受章。67年からフジテレビ系「ハイ!土曜日です」司会。NHK連続テレビ小説は「オードリー」「てるてる家族」「だんだん」などに出演。58年に結婚した絹子さんとの間に3男。絹子さんは14年死去。

 ◆上方落語 江戸中期に京都で露の五郎兵衛、大阪で米沢彦八が自作の話を披露したのが起源とされる。江戸落語との違いは、見台(けんだい)を扇子や小拍子(こびょうし)でたたき、三味線などの演奏を取り入れるにぎやかな演出。戦後、漫才の勢いに押されるなどして落語家が激減し、1957年の上方落語協会発足時の会員数は18人。だが桂米朝さんらが「四天王」と称されるまで芸を磨き、多くの弟子を育てて盛り返した。定席「天満天神繁昌亭」の開場(06年)などで落語人気に弾みがつき、13年7月現在で協会に所属する落語家は約230人。