戦後の上方落語復興に尽力し「上方四天王」に数えられた3代目桂春団治(本名・河合一=かわい・はじめ)さんが9日午前0時11分、心不全のため亡くなっていたことが14日未明、分かった。85歳だった。11日に親族や一門で密葬が行われた。

 歌や芝居で表現される破天荒なキャラクターの初代、実父の2代目とは違い、繊細で華麗な語り口、色気あふれる高座で魅了してきた。四天王のうち、6代目笑福亭松鶴さん、5代目桂文枝さんに続き、昨年3月には人間国宝だった桂米朝さん(享年89)が亡くなっており、上方最後の大看板だった。

 一門関係者によると、夫人や家族が見守る中、息を引き取ったという。体調は「内臓全般が段々、弱ってきていた」と明かした。

 また、弟子の桂春之輔(67)は、最後に会ったのが昨年末だったといい、今春の大阪府池田市で予定している毎年恒例の「春団治まつり」のチラシ見本を見せに行ったときだった。

 「福団治以下“日本団治”をコンセプトにプログラム作って、これでよろしいか、言うと、はっきりと声には出しませんでしたが、何度もうなづいてくれた」

 春団治さんは、ここ2~3年、入退院を繰り返し、昨年3月、米朝さんの葬儀には出席したものの、以後も体調が優れなかった。最近は会話も困難になっていた。今春の春団治まつりは、追善興行になる。

 春団治さんは13年8月半ばに大阪市内の自宅で転倒し、足の爪がはがれて正座ができなくなったことから入院。転倒した際に頭も打っていたため、精密検査も行い、大事をとって入院加療を続けていた。

 ところが、入院先の病院でも、担当看護師の仕事量を気づかい、1人でトイレに行った際に、再び転倒。その影響で肋骨に複数箇所、ひびが入り、一部箇所は骨折。コルセットを着用し、足の筋力を回復させるリハビリに努めるなどし、13年9月には退院したものの、秋以降もなかなか高座復帰の見込みは立たなかった。

 13年11月3日に出演予定だった「桂文之助襲名披露公演」(京都・南座)も休演。当時、松竹芸能を通じて、春団治さんは「襲名というめでたい席に万全ではない状態で出演できない」とコメントしていた。

 13年末には、一門や所属事務所が、新装された松竹芸能の劇場、角座の14年正月興行で復帰させようと動いたが、回復が思わしくなく先送り。14年3月8日の「6代桂文枝襲名興行千秋楽」の口上もキャンセル。弟子の桂春之輔によると、復帰メドが立たない中、春団治さん自身の気力も衰えが見えてきていたという。

 14年2月24日には、大阪市内で、弟子の故桂春駒さんをしのぶ会に出席し、あいさつも行った。ただ、完全復活とはいかず「今やこうして立っているのが関の山。足が痛い、腰が痛いで、正座もできません」「自分の体が思うようにいかない(動かない)」などと、本音を吐露しつつ、近況を報告していた。

 弱気になりがちな師匠を励まそうと、一門は、14年4月26~27日に池田市で予定されていた「春団治まつり」での復帰を計画したが、元来が、完璧主義者の春団治さんだっただけに、「みっともない格好では出れん」と言い、出演を見送った。

 春団治さんは、米朝さんらとともに、戦後の上方落語を復興させた功労者だった一方で、持ちネタの少なさで知られた。何度もけいこを繰り返しても、自分で満足できないと、高座にかけるのを見送ることもあった。

 2代目からは「風呂敷丁稚」「祝のし」などを教えられ、ほかの師匠連から「子ほめ」「お玉牛」「野崎詣り」「いかけ屋」「高尾」を、また、米朝さんからも「代書屋」「皿屋敷」「親子茶屋」「色事根問」「始末の極意」をけいこしてもらっており、これらを持ちネタとしていた。

 完璧主義としても知られた春団治さんだけに、不完全な状態で高座に上がることは固辞。高座から遠ざかり、徐々に気力が衰えていった。