プレーバック日刊スポーツ! 過去の11月7日付紙面を振り返ります。2005年の1面(東京版)は、最後は微笑んで…本田美奈子さん白血病で死去を報じています。

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 「1986年のマリリン」などのヒット曲で知られ、ミュージカル女優としても活躍した歌手本田美奈子.さん(ほんだ・みなこどっと、本名工藤美奈子=くどう・みなこ)が6日午前4時38分、急性骨髄性白血病のため、都内の病院で死去した。38歳。今年1月に病気が判明して緊急入院。過酷な闘病生活だったが、「きっと元気になってみなさんの元に帰る」と信じて、最期まで闘い続けた。

 本田さんは、家族や親類、所属事務所関係者らが見守る中、息をひきとった。関係者は「文字通り、静かに眠るようでした。最後に天使みたいにほほえんで、全員から『わぁーっ』と感動の声が上がったほどでした」と振り返った。

 埼玉県朝霞市の自宅に帰った遺体は、1階の居間に安置され、家族が寄り添っているという。所属事務所はマスコミ各社に送ったファクスで「10カ月の闘病生活を送っていましたが、きょう永眠致しました」と悲報を伝えた。過酷な闘病生活の一部始終を見てきた事務所の高杉敬二社長は「明日は治るという希望のもと、勇気ある戦いをしていました。感動と勇気をもらったし、こういうアーティストに出会えて本当に良かったです」と話した。

 本田さんが緊急入院したのは今年1月13日。風邪のような症状で診察を受け、病名が判明した。3度の化学療法と臍帯血(さいたいけつ)移植手術を受けた。7月30日に一時退院し、翌31日の誕生日を自宅で迎えるなど快方の兆しもみえていたが、8月31日に再び染色体の異常が発見され、再発が判明した。米国から取り寄せた新薬も試みた。

 今年がデビュー20周年。節目の年の復帰を信じて、新アルバムを企画していた。「病室とレコーディングを行き来してつくろう。まだ20周年に間に合う」と先月から詩の創作も始めていたが、容態が急変した。高杉氏は「僕が最後に聞いた美奈子の言葉は『レコーディング頑張ろうね、ボス』でした」。

 アルバム発売、ミュージカル出演、20周年コンサートなどすべてをキャンセルした闘いだったが、本人はいつも「負けない」と前向きだった。抗がん剤の副作用で髪が抜け、毎日デザインが違うバンダナを巻いて自分を励ました。

 病床では、ファンや友人の手紙を毎日ながめ、励みにしていた。移植手術後の5月には、ファンに向けた直筆メッセージを発表。「現実を受け入れ病気と闘わなくてはいけないと思っていても、涙が止まらないのです。泣きたい時は我慢しないで泣いています」と不安な心境もつづったが「きっと輝く健康な自分が待ってくれていると信じています」と自分を奮い立たせるような言葉で結んだ。

 普段は「たくさんの人に支えられて私は生きている。そのことが病気になって初めて分かった」と繰り返し語り、不安や希望をノートに書き留めてもいた。亡くなる数日前には「自分の舞台を見たい」という本人の希望で、出演ミュージカルのDVDが届けられた。

 10月半ばに電話で話した関係者には、明るい声で「私は元気よ。あなたこそ元気なの?」と話し、笑っていたという。ミュージカル共演以来の友人、歌手岩崎宏美は、5日に病室を見舞ったときの様子をこう語った。「意識はなかったけど、大声で呼びかけると『ああ』と答えてくれました」。細身の体から繰り出す歌声同様、その生きざまは最期まで力強かった。

 ◆本田美奈子. 1967年(昭42)7月31日、東京都生まれ。85年に「殺意のバカンス」でアイドル歌手としてデビューし、日本レコード大賞新人賞を受賞。92年に「ミス・サイゴン」のキム役でミュージカルデビュー。以後「レ・ミゼラブル」「屋根の上のヴァイオリン弾き」などに出演し、ミュージカルを中心に活躍した。04年11月に姓名判断で「字画を1つ増やせば、輝ける未来に」といわれ名前の最後に「.」をつけて改名した。163センチ。血液型O。

 ◆急性骨髄性白血病 骨髄や血液で、未熟な白血球が異常に増殖する病気。造血、免疫機能が低下し、貧血や発熱などの症状がある。白血病細胞の種類で急性骨髄性と急性リンパ性に大別される。発症は10万人あたり約6人。

 骨髄性の治療法は、まず化学療法で細胞を寛解(かんかい=消滅させること)させ、維持療法か骨髄移植を行う。臍帯血移植は、へその緒の血液に大量に含まれる、血液のもとをつくる造血幹細胞を使う。細胞が5%以下になった状態を完全寛解というが、井上外科胃腸科病院の井上毅一院長は「1度寛解しても油断はできない。若いと病気の進行も早い」。医療ジャーナリスト祢津加奈子氏は「化学療法にうまく反応せず、完全寛解までに時間がかかると再発する場合が多い」と説明する。同病では、女優夏目雅子さんが85年に27歳で亡くなった。

※記録と表記は当時のもの