関西浪曲界の第一人者で、「女殺油地獄」などで知られる浪曲師、春野百合子(はるの・ゆりこ、本名佐伯昌=さえき・まさ)さんが25日午後9時15分、老衰のため堺市内で死去していたことが27日、分かった。89歳だった。

 この日、近親者のみで行われた葬儀・告別式には、「進ぬ!電波少年」のケイコ先生こと、弟子の春野恵子も参列。恵子によると、春野さんは「苦しんだ様子もなく、穏やかな顔をしておられました」という。

 春野さんは、ともに浪曲界の大スターだった吉田奈良丸、初代春野百合子の間に生まれ、48年に初舞台。亡くなった母の名を継いで2代目を襲名した。華麗な芸風で、近松門左衛門作品をアレンジした文芸ものや、男女の物語を独特の語り口で演じ、関西浪曲界の第一人者になった。

 演歌歌手の中村美律子が師事したことでも知られ、東京からの恵子が弟子入りに来た際には「今の時代、浪曲師をやっていくには、根性がないと無理」と、いったん断ったとされる。

 これについて、恵子は「何度も東京から通ううち、師匠は『東京から変な子がきてる』と言ってくださるようになった」と話した。

 恵子は「師匠は『ほめて伸ばす』タイプでした。師匠自身、三味線にしてもほめて伸ばしてもらったとおっしゃっていて、私なんかは『何もほめることがないでしょう?』と思っていましたが、それでも『よく覚えてきたね』とほめてくださった」。弟子はほめられることで、ますます精進への思いが強くなり、恵子も「ますます頑張らなきゃと思って、練習しました」と振り返る。

 人柄も温厚で、誰に対しても平等だった。恵子も「誰に対しても、丁寧に、丁寧に対応されていた」といい、芸風や指導法だけでなく、人間としても尊敬し、継いでいきたいと話す。

 恵子は今、浪曲師として、上方落語家との舞台共演や、落語定席「天満天神繁昌亭」へも出演しているが、この活動の幅についても、春野さんは「ようやるなあ~。怖い者知らずやね」と感心するだけで、弟子のやることに反対することはなかったという。

 恵子は「私が浪曲を歌うことで、お客さんは、師匠のことを知って、残っている音源も聴いてくださる。これからも歌い続けていきたい」と話している。

 春野さんは69年に文化庁芸術祭優秀賞、94年には紫綬褒章、99年に勲四等宝冠章など、受賞、受章は多数。8年ほど前に、表舞台からは退いていた。