プレーバック日刊スポーツ! 過去の12月25日付紙面を振り返ります。1997年の1面(東京版)は「世界のミフネ」と呼ばれた俳優三船敏郎さんが死去を報じています。

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 「羅生門」「七人の侍」など黒沢明監督の名作に出演、「世界のミフネ」と呼ばれた俳優の三船敏郎さん(みふね・としろう、本名同じ)が24日午後9時28分、全機能不全のため東京・三鷹市の杏林大病院で死去した。77歳だった。

 戦後、東宝第1期ニューフェースとして映画界に入り、イタリア・ベネチア映画祭で2度の主演男優賞を受賞するなど、存在感のある演技は海外からも高い評価を受けた。5年ほど前から体調を崩し、療養生活を送っていた。自宅は東京都世田谷区成城9の30の7。葬儀・告別式の日取り、喪主などは未定。

 三船さんは1週間前から体調を崩していた。この日、午後6時すぎに容体が急変し、長男の史郎さん(47)らに見守られ、静かに息を引き取った。三船さんの遺体は午後11時58分、入院先の東京・三鷹の杏林大病院から成城の三船プロに運ばれた。三船さんの遺体は布団にくるまれていた。事務所前には報道陣が駆けつけたが、史郎さんが「密葬させてください」と訴え、事務所内に姿を消した。

 三船さんは1992年(平4)10月に都内で開かれたパーティーの席上、心臓発作で倒れ、2カ月間入院した。退院後は自宅で療養生活を続けていたが、体力的な衰えは隠せず、以降、公の場に姿を見せることは、ほとんどなかった。

 特に1週間前から体調を崩し、都内の病院に入院してからは意識不明が続いた。長男の史郎さん(47)らにみとられ、静かに息を引き取ったという。最後に出演した映画は95年の「深い河」(熊井啓監督)。戦争中に飢餓のあまり戦友の人肉を食べたことに死ぬ間際まで苦しみ続ける男の役柄だったが、芳しくない体調と闘いながら見事に演じ切った。

 三船さんは復員後、46年に東宝第1期ニューフェースとして入社した。47年のデビュー作「銀嶺の果て」(谷口千吉監督)で編集を担当した黒沢明監督(87)の目に留まり、翌48年の「酔いどれ天使」から「赤ひげ」(65年)まで16本の黒沢作品に主演した。「羅生門」は51年のベネチア映画祭でグランプリを獲得。以来、「赤ひげ」まで世界各国の映画祭で6作品が12の最優秀、優秀賞を受賞した。

 クロサワ、ミフネは、まさしく終戦直後の日本の顔だった。三船さんは個人でもベネチア映画祭で2度の主演男優賞に輝いている。アラン・ドロン、チャールズ・ブロンソンと共演した「レッド・サン」スピルバーグ監督の「1941」など海外の作品にも数多く出演した。

 62年には三船プロを設立し、映画製作に乗り出した。監督、主演の「五十万人の遺産」から「海燕ジョーの奇跡」まで13本を製作、自前の撮影所、オープンセットを持ち、一時は200人の社員、タレントを抱えた。

 しかし、三船、石原裕次郎、勝新太郎、中村(萬屋)錦之介の4大スターが共演した「待ち伏せ」(70年)が頂点で以降、経営は悪化、内紛を繰り返した。一時は負債が15億円に上り、85年には撮影所が全面閉鎖された。

 華やかな俳優歴の陰で、プライベートでは苦労が多かった。50年に東宝ニューフェースの同期生だった幸子さんと結婚した。長男と次男をもうけたが72年に別居。幸子さんが離婚を拒否したため、離婚問題は裁判に持ち込まれ、10年に及ぶ長期の泥沼の法廷闘争を繰り広げたが、決着はつかなかった。幸子さんと別居後、元女優の北川美佳さん(46)と暮らし、娘のタレント三船美佳(15)をもうけた。

 しかし、三船さんは療養生活を送っていた94年に北川さんのもとを離れ、幸子さんと和解して再び一緒に暮らし始めた。幸子さんは翌95年に死去。三船さんは「かわいそうなことをしたな」と幸子さんの遺体につぶやいたという。

 黒沢監督は三船さんのことを「そのスピード感は日本の俳優にないものだった」と評した。「七人の侍」の菊千代役など、スクリーンではとにかく走っていたイメージが強い三船さん。戦後の日本映画界を文字通り全力で駆け抜けた。

◆闘病経過◆

▼1969年(昭44)1月

映画「御用金」のロケ先となった青森県内のホテルで激しい痛みを訴え、入院。

▼92年(平4)10月

心筋こうそくで倒れ、1カ月半にわたって入院。その後、老人性痴ほう症の症状が出るようになる。

▼94年3月

東京・成城の事務所で胸の痛みを訴えて倒れ、緊急入院。3日後に退院した。

▼95年6月

東京・三鷹市内の病院に入院している姿が写真誌に掲載された。入院は、腹部の動脈りゅうの検査が目的だった。

◆全機能不全◆

呼吸、体温が全身的に低下して、すべての臓器に機能障害を起こし、死に至る。

★映画「七人の侍」で共演した俳優千秋実(80)の話

 三船さんは一般的には豪放磊落(らいらく)に見えるんでしょうが、実は繊細な神経を持った、非常に気がつく男でした。「七人の侍」ロケ中、僕はへんとうが弱くて、高熱が出て、まいったなあと思っていると、三船さんがどこからともなく氷を持って現れ、僕の額に氷のうを乗せてくれるんです。優しい男でした。

 三船さんが亡くなって、これで七人の侍の中で残っているのは、僕一人だけになってしまいました。寂しくなりましたね。どんどん仲間が死んでいくのは何とも言えない寂しいものがあります。

◆三船敏郎(みふね・としろう)

 本名同じ。1920年(大9)4月1日、中国・青島生まれ。47年の「銀嶺の果て」がデビュー作。翌48年の黒沢明監督の「酔いどれ天使」以後、ベネチア国際映画祭グランプリの「羅生門」(50年)、同映画祭最優秀男優賞の「用心棒」などの黒沢作品に主演し、国際的スターとして注目を集めた。62年に三船プロを設立して独立。受賞、授章多数。

 50年に女優吉峰幸子と結婚し2男を設けたが72年から別居。95年に夫人は死去した。74年ごろから女優北川美佳(現・喜多川美佳、本名・大野照代さん)と同居。82年には二人の間に長女が誕生。

※記録と表記は当時のもの