大ヒット曲「上を向いて歩こう」の作詞、放送作家、ラジオパーソナリティーや、ベストセラー「大往生」でも知られる永六輔さんが、7月7日に肺炎のため83歳で亡くなった。エンターテインメントの世界で多岐にわたって才能を発揮し、日本人のメンタリティーを支え続けてきた人だった。作品が多くの人に支持されたのは、有名になってもハートは庶民だった。【構成=中野由喜】

●コント作家を経て放送作家に

 永さんは高校時代から芸能界に関わった。NHKのラジオ番組「日曜娯楽版」への投稿をきっかけに、三木鶏郎さんが率いた制作者集団「冗談工房」に参加し、コント作家を経て放送作家の道に。これが、その後の日本のエンターテインメントを支えるきっかけとなった。

 構成作家を務めたNHK「夢であいましょう」は大ヒット。コントと歌で見せるショーで、洗練された演出で高度成長期のお茶の間に夢を届けた。その後、娯楽番組の司会、ワイドショーのリポーター、ラジオ番組パーソナリティー、「浅田飴」などのCMと、活動の幅を広げた。

 作詞家としては、作曲家中村八大さんとの「八六コンビ」で、ヒット曲を次々に生み出し、59年、初めて作詞した「黒い花びら」が水原弘さんが歌って「日本レコード大賞」第1回大賞受賞作に。他にも八六コンビで「こんにちは赤ちゃん」「遠く行きたい」などのヒット曲があった。

 坂本九さんが歌った「上を向いて歩こう」は日本だけのヒットにとどまらず、「SUKIYAKI」のタイトルでリリースされた米国で全米チャート、ビルボードで3週連続首位を獲得。戦後の高度経済成長に汗を流してきた日本人には、希望を象徴する曲とも言え、多くの人々を勇気付けた。

 そして時が流れ、東日本大震災では、同曲を復興曲として多くの企業が使用した。今もなお日本人の心を支えている。

 また、作曲家いずみたくさんとのコンビでは「見上げてごらん夜の星を」「いい湯だな」などヒット曲を世に送り出した。

●市井の人々の言葉を集めた著書

 作家としては、94年発売の「大往生」が200万部超の大ベストセラーに。人々の老いや死の話を、語録集としてまとめた内容で、自分に向けた弔辞も書いていた。著書には、市井の人々の言葉を集めたものが多く、旅での出会いを大切にしていた。

 エンターテインメントの世界で、これほどマルチな才能を発揮し、人を支える力を世に提供した人は他にいるだろうか。これも、あれも永さんの作品だったのかとあらためて知った人も少なくないだろう。間違いなく。日本のエンターテインメントの基礎を作った人だと言っていい。

 60年以上、親交があるタレントの黒柳徹子は、お別れの会で遺影に向かい「永さんのいないこの世の中はつらいと思います」と言葉を投げかけた。元キャスターの久米宏氏は「46年間、先生だと思ってお付き合いした」。放送作家の高田文夫氏は「ひとりTV放送史でした。書いて面白く、出てなお面白い」と生前を偲んだ。

 永さんのさまざまな功績を紹介したが、これだけ華やかに活躍しても、永さんには決して派手な印象はない。生前、何度か、あるテレビ局で見かけたことがある。洋服はかなり地味だった。どこにでもいる普通のおじいちゃんにしか見えなかった。永さんの残したさまざまな功績に共通するのは、人の優しさやまごころ、そして夢と希望。庶民の心に響く作品を残せたのは、どんなに有名になっても庶民のハートを持ち続けたことが要因ではなかろうか。天国では、日本の庶民の、平和な普通の日常が続くことを願っているように感じている。【中野由喜】

 ◆永六輔(えい・ろくすけ)1933年(昭8)4月10日、東京・浅草生まれ。早大文学部中退。中学生の時、NHKラジオ「日曜娯楽版」に脚本を投稿し、大学時代から本格的に放送作家に。ラジオパーソナリティー、作詞家、文筆家などさまざまな顔を持つ。02年に亡くなった妻昌子さんとはおしどり夫婦で知られた。長女はエッセイスト永千絵さん、次女は元フジテレビアナウンサー永麻理さん、孫は俳優育乃介。