16年に映画「百円の恋」(14年)で日本アカデミー賞最優秀脚本賞、NHKドラマ「佐知とマユ」(15年)で市川森一脚本賞を受賞した脚本家の足立紳氏(43)が、20年越しの思いを実らせた初監督映画「14の夜」が同年末、公開された。足立監督が日刊スポーツの取材に応じ、「セーラー服と機関銃」などで知られる相米慎二監督(享年53)に師事してから、初監督作品公開に至るまでの映画人生を語った。

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 足立監督は1995年(平7)、日本映画学校(現日本映画大学)を卒業し、相米監督の元で映画人生をスタートした。

 「相米さんには、日本映画学校を出て、すぐ弟子みたいな形でくっつきました。助監督見習いからスタートしたので…要は、シナリオライターという頭は全くありませんでした。ただ『監督をやりたいならシナリオを書かなきゃ話にならないよ』と、ペーペーの頃からプロデューサーに言われていて、書かなきゃいけないんだなと思い、合間を見ては書いていました」

 -卒業して即、日本映画史に残る監督の弟子になれたのは持っていたのでは?

 足立監督 今、思うと本当に、その偶然は幸せなんですけど…当時は、そう思う心の余裕はなく、『どうなっちゃうんだろう』っていう感じでした。相米監督が何かの映画を撮る、その助監督という形で行ったわけじゃなく、あるプロデューサーが『相米は今、何も決まっていないけれど、とにかく若いヤツを探している。どうなるか分からないけれど月10万くれる』と言うからくっついたので。一方、同期で卒業したヤツらは映画、ドラマ、CMなりの現場でガンガン頑張っている。『この仙人みたいなおっさん、いつ映画を撮るとも分からないし、どうなっちゃうのかな、この先は。俺のこの境遇って、かわいそうすぎないか』とか、そんなことばかり考えていた。本当に、もったいない時間の過ごし方をしたんじゃないかと、すごく後悔がありますね。結局、不安感からって何も生まれないのは、その時、よく分かりました。

 -相米監督から脚本の指導は受けた?

 足立監督 相米さんから『書いたら見せろよ、お前』と言われていたので、書いたものをたくさん見せていましたね。そのうち、相米さんが実際に(映画化しようと)動いたのは1本だけですけど。相米さんがやっていらっしゃる企画で『お前、書いてみろ』と言われたものを含め年間5、6本はシナリオを書いていましたね。

 ◆宮藤官九郎氏に続こうと狙ったが…

 -そこから脚本家への道が開けた

 足立監督 26、7歳くらいの時、相米さんのところを1回離れて、他の現場に行った時、相米組にいた先輩が監督デビューするというのでシナリオを頼まれて、ラッキーと思って食い付きました。ちょうど宮藤官九郎さんが業界でブレイクすると言われていた時で「こいつみたいになって、シナリオライターとして世に出て、監督デビューしよう。辛い助監督の仕事は、そこで吹っ飛ばそう」と思った。

 -そう、うまくはいかなかった

 足立監督 全く、そうはいかなかったということです。甘い考えでした。シナリオを頼まれた企画が、田口トモロヲさん主演の「マスク・ド・フォーワン」(01年)という映画で形になり、公開された時は30歳。大ヒットして、シナリオの仕事がワンサカくるっていう甘い妄想を抱きましたが…1本もきませんでした。

 -その頃、妻と結婚した

 足立監督 現場で助監督をしていた頃、金はそれなりに持っていたんですが、当時は本当に金がなくて、嫁さんに捨てられそうになりました。嫁さんは配給会社にいて、業界のことは、ちょっとは分かっていて「お金がなくて苦労するのは分かっているけど、結婚しようよ」って言ってくれたんです。ただ「いやぁ…これから売れっ子になるかもしれないし。もうちょっと1人前になるまで待ってよ」なんて、よこしまなことを言っていたらドンドン落ちていった。嫁さんが「別れよう」なんて言ってきたので…慌てて結婚に持ち込んだんです(苦笑い)雨風しのぐために結婚…というと嫁さんには悪いですけど。

 -脚本を担当した盟友・大崎章監督の「お盆の弟」(15年)には、売れない映画監督と脚本家のコンビが登場する。大崎監督は「僕と足立の私生活の、ほとんど実話です」と明かした

 足立監督 主人公の売れない映画監督タカシが神社で拝むのは僕の習慣です。「14の夜」公開初日の16年12月24日には、いつも行く神社のさい銭箱に1000円入れました。「映画がヒットしますように」って。

 ◆長い空白をへて感無量を通り越した

 -若い頃は現場で俳優の一員として演技もするなど苦労したが、貫いた

 足立監督 いつかは絶対(監督になる)みたいな思いは、かなり早い段階で、つぶれていたような気がしますね。空白時期が長すぎるんで…。相米さんから直接「使えない」とか言われたことはないですが、その後のいろいろな現場では助監督としては無能に近い感じでした。(卒業して)3年くらいたつと心は折れ折れみたいな感じになっていました。

 -そこから20数年へた今、映画監督になった

 足立監督 本当に、うれしいですし…もう、あまりにも間が空きすぎて、感無量みたいなものを通り過ぎているんですよね。苦節10年とかだと、舞台で号泣みたいなところになっていたのかも知れないですけど。ちゃんとやっていた人だと、下積みって言うんでしょうけど…俺の場合は、単なる空白なんで。冷めてるわけじゃないんです。

 次回は一躍、人気脚本家となった足立監督が、自身の今後について語る。【村上幸将】

 ◆足立紳(あだち・しん)1972年(昭47)鳥取県倉吉市生まれ。日本映画学校(現日本映画大学)卒業後、相米慎二監督に師事し、助監督を務め、脚本を書き始めた。12年の山口・周南「絆」映画祭で第一回松田優作賞を受賞した脚本を映画化した映画「百円の恋」は、東京国際映画祭日本映画スプラッシュ部門作品賞をはじめ国内外の各映画賞を受賞し、15年に米アカデミー賞外国語作品賞の日本代表に選ばれた。