プレーバック日刊スポーツ! 過去の2月24日付紙面を振り返ります。2005年の1面(東京版)は、映画「おくりびと」の第81回アカデミー賞外国語映画賞授賞式でした。

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 「おくりびと」に米映画界最高の栄誉が贈られた。第81回アカデミー賞(映画芸術科学アカデミー)の授賞式が22日(日本時間23日)ロサンゼルスのコダックシアターで行われ「おくりびと」(滝田洋二郎監督)が外国語映画賞を受賞した。57年に同賞が設けられて以来、日本作品の受賞は初めて。企画から十数年携わってきた熱意が実った本木雅弘(43)を撮影中から取材してきた日刊スポーツが秘話に迫った。また、短編アニメ部門で加藤久仁生監督(31)の「つみきのいえ」が受賞した。

 「久しぶりにのめり込んでいます」。一昨年5月、撮影現場となった山形県内の火葬場を訪ねると、本木はしんみりとした撮影場面には少し似つかわしくないはずむような声で話した。言い出しっぺの責任感が、気持ちを高揚させていたのだろう。納棺師という聞き慣れない職業に焦点を当てることを思いついたのは、本木自身だった。理由を聞くとまくしたてるような早口で説明した。

 27歳の時に友人とインドを訪れた。ガンジス川に流れる遺体をいくつも見た。「そばでおばさんが洗濯をして、子どもたちが遊んでいる。死が身近にある日常に衝撃を受けた」という。「人はみんな死ぬ。でも日常から遠ざけようとしている。死に自然に向き合う死生観に不思議と興味がわきました」。帰国後に読みあさった関連書の中に「納棺夫日記」(青木新門著)という本があり、見知らぬ遺体を清めて仏着を着せて棺に納める「納棺師」という職業を知った。旅立ちの儀式に生と死の接点を感じた。「直感でこれは映画になると思った」。

 なじみのない題材だけになかなか周囲に切り出せなかった。「2人の子どもの立ち会い出産で生命の誕生の温かみを感じたことが背中を押してくれた」。親しい映画プロデューサーに企画を持ち込んだ。

 デリケートな題材でもあり、映画化決定まで紆余(うよ)曲折があった。映画化の理解を得るため、インスピレーションを受けた「納棺夫日記」の作者のもとにも足を運んだ。納棺師の訓練も受けたが「流れている空気をどうしても知りたい」と、遺族の心情を配慮して眼鏡などで変装し、納棺の現場にスタッフとして同行したという。「作業が静かに進むにつれて、亡くなったおばあちゃんの死を遺族の方々が受け入れていく様子を肌で感じた。生と死の間にある大切なものを感じ取れた」。

 火葬場の撮影が終わり、本木は宿泊先のホテルに戻った。会食の場所に姿はなかった。スタッフに聞くと、ロケ撮影中は部屋に戻ると毎日遅くまで、小柄なマネジャーを相手に納棺師の所作をけいこしているという。その成果は完成した映画で十二分に発揮されている。自家用車は霊きゅう車と同じ寝台車が付いたタイプに買い替えた。多くをこの映画にささげた。

 これまで何度か撮影現場の本木を訪ねてきた。性格が正直なのか、まじめなのか、自分に対する不満やふがいなさを愚痴ることが多かったが、節目節目で取材を重ねた「おくりびと」でそうした本木の姿を見ることはなかった。ここ数年はヒットに恵まれず、俳優として悩みも抱えていたに違いない。15年も温めながら映画化にこぎつけ、なりふり構わず役作りに励んだ「おくりびと」によって、俳優としての輝きを再び取り戻した。

 発表の瞬間、受賞を予想していなかった本木は滝田監督に手招きされ、慌てて壇上に上がった。終了後の会見でも「言葉になりません。気持ちの整理がつかずに、信じられないシーンが続いて、起こっているという感じ。アカデミーの人も悩まれたと思いますが、前向きな救いを感じるということに、なったのではないかと分析しているようです」と興奮気味に話した。

 受賞と関係なくオスカーを満喫した。150メートルのレッドカーペットを1時間半かけて歩いた。多くのスターを見て「パパラッチな気分でした」と堪能しながら昨年10月に亡くなった父親役の峰岸徹さんを思い出していた。「峰岸さんの思いも一緒に持って行きたい」と心に決めていた。胸ポケットには、公開に尽力してくれた、07年に亡くなった所属事務所の小口健二社長の写真を忍ばせた。妻の内田也哉子は関係者約60人と近くのホテルで待っていた。終了後、夫婦でオスカー像を手に写真を撮った。

 ◆本木雅弘(もとき・まさひろ)本名・内田雅弘。1965年(昭40)12月21日、埼玉県生まれ。81年のTBSドラマ「2年B組仙八先生」でデビュー。ドラマで共演した薬丸裕英、布川敏和と3人で「シブがき隊」を結成し、82〜88年に歌手活動。その後は俳優として映画「シコふんじゃった。」(92年)「ラストソング」(94年)「双生児」(99年)などに出演。95年に内田裕也、樹木希林夫妻の長女也哉子と結婚し、2児をもうけた。174センチ。血液型A。

※記録と表記は当時のもの