劇団四季の元代表で、「キャッツ」「ライオンキング」のミュージカルを手掛けた演出家の浅利慶太(あさり・けいた)さんが13日午後5時33分、悪性リンパ腫のため都内の病院で亡くなった。85歳だった。葬儀は近親者のみで行い、9月にお別れの会を行う予定。四季を日本最大の劇団に育て、98年の長野冬季五輪では開閉会式の演出を行った。日本にミュージカルを定着させた功労者だった。喪主は妻で女優の野村玲子(のむら・りょうこ)。

 浅利さんは昨年夏ごろから体調を崩し、同9月に「悪性リンパ腫」と診断された。その後、入退院を繰り返しながらも、同12月に「この生命誰のもの」を演出。今年4月には戦争に突入した昭和の歴史をリアルに描いた「ミュージカル李香蘭」の演出を手掛けた。9月には「アンドロマック」を演出予定で、その準備に入る矢先の6月初めに入院。病室から公演について指示するなど、最後まで現役の演出家だった。7月10日ごろに容体が急変、妻で女優の野村玲子(56)ら数人の親しい関係者にみとられて息を引き取った。

 浅利さんは生前から「葬儀は派手にやらないでほしい」と言っており、葬儀は近親者と親しい関係者のみで行った。演出予定だった「アンドロマック」(9月7~12日、東京・自由劇場)は、主演する野村らが浅利演出を忠実に再現する形で上演。その後、「お別れの会」を行うという。この日、劇団四季の劇場に浅利さんの遺影と追悼文を飾った祭壇を設置。手を合わせるファンの姿が見られた。

 浅利さんは日本の演劇界を変えた人だった。大叔父は歌舞伎俳優2代目市川左団次、父は築地小劇場創立同人の浅利鶴雄という演劇一家に育った。慶大文学部フランス文学科在学中の1953年に、故日下武史さんら10人と劇団四季を創立した。「観客に感動を与える演劇」を掲げ、ミュージカル「キャッツ」「オペラ座の怪人」「ライオンキング」などのミュージカルから「オンディーヌ」「ハムレット」などのストレートプレーまで、約130本の劇団四季作品の演出、プロデュースを手掛け、その上演回数は1万回を超える。ミュージカル文化を定着させた最大の功労者だった。83年に「キャッツ」で日本初のロングラン公演を成功させるなど、演劇の興行形態に変革をもたらした。

 創立時から「芝居で食べられるようにしたい」と公言。旗揚げ公演の観客は150人だった劇団四季を、観客動員300万人、年間公演数3000回、俳優・スタッフを含めて劇団員は約1300人という日本最大の劇団に育て上げた。14年に「経営を若い人に任せ、演出に専念したい」と劇団代表を退いてからは、浅利演出事務所を拠点に計12公演の演出を手掛けた。劇団経営者として長く手腕を発揮したが、最後は「演出家浅利慶太」という、純粋に演劇に情熱を燃やした若き日の姿に戻っていた。

 ◆浅利慶太(あさり・けいた)1933年(昭8)3月16日、東京生まれ。慶大在学中に劇作家の故加藤道夫氏に傾倒し、53年に劇団四季を結成。54年の第1回公演にフランスの劇作家アヌイ作「アルデール又は聖女」を上演し、80年代には「キャッツ」「オペラ座の怪人」などミュージカルを数多く上演した。ミラノ・スカラ座でオペラ演出したり、06年に「ライオンキング」ソウル公演を行うなど、海外でも高い知名度を誇った。「ライオンキング」は公演回数が1万回を超えて国内の演劇として最多記録。3度結婚したが、子どもはなかった。