黒沢明監督の名作「羅生門」「七人の侍」などを手掛けた日本を代表する脚本家、橋本忍(はしもと・しのぶ)さんが19日午前9時26分、肺炎のため東京・世田谷区の自宅で死去した。100歳。日本映画の黄金期を支え、08年には「私は貝になりたい」の再映画化で半世紀ぶりに脚本をリライトするなど、息長く活躍した。

 橋本さんは数年前から小説「天武の夢」を執筆中だった。次女今井絲(いと)さん(70)は20日、「自宅で家族に見守られ、本人も満足だったと思います」と話した。橋本さんは1日1回書斎に入り、1、2時間はワープロに向かっていた。「放っておくとずっとワープロの前にいるので、夕方になると大好きな相撲中継の音量を上げ、書斎から出てきてもらいました」。

 昨年9月に気管支拡張症で入院したが、同月末に退院し自宅に戻っていた。体調は良くなったり悪くなったりしていたが最後まで普通の食事をとり、死去する3日前には元気で取材に応じていたほど。創作意欲が衰えることはなかった。

 映画史に残る骨太な作品を70本以上残した橋本さんの映画界入りのきっかけも、書きためた原稿がきっかけだった。終戦から4年、サラリーマン生活のかたわら、芥川龍之介の「藪の中」を脚色した原稿が人づてに黒沢明監督の手に渡る。「ちょっと短いんだけど」と監督から言われ、橋本さんはとっさに「じゃあ(同じ芥川の)『羅生門』を入れたらどうでしょう」と答えてしまった。

 2本の小説の組み合わせは至難の業だったが、これが名作「羅生門」の誕生につながる。後々までの緻密な構成力や、競輪好きで知られ、ギャンブラーらしく即断で仕事に向き合う「脚本家・橋本忍」の原点となった。

 「羅生門」はベネチア映画祭金獅子賞を獲得し以降、黒沢作品は計8本。60年の「悪い奴ほどよく眠る」でいったん離れた理由については「撮影期間が長く、その間別の仕事をすれば数本分のギャラが入るから」と後年、本音を明かしている。

 黒沢監督との仕事で培ったダイナミックな構成力は「砂の器」「霧の旗」など、松本清張原作の名作に生かされた。映画評論家の清水節さんは「登場人物1人1人の視点を持ち込む描き方は映画の話法を変え、世界中の映画に影響を与えた」としている。善と悪、愛と憎しみなどの対立概念を巧みに織り込んだ作品は日本映画の黄金時代を支え、山田洋次氏、小林正樹氏、山本薩夫氏ら多くの監督に影響を与えた。葬儀・告別式は近親者のみで行う。喪主は長女綾(あや)さん。

 ◆橋本忍(はしもと・しのぶ)1918年(大7)4月18日、兵庫県生まれ。実家は小料理屋。旧国鉄勤務後の38年、軍隊に入るが結核にかかって兵役免除。伊丹万作監督に憧れて師事し、脚本家を目指す。終戦後は会社勤めのかたわら脚本を書いた。寺内大吉とともに競輪界への「論客」としても知られた。68~70年、日本シナリオ作家協会理事長を務めた。著書に「複眼の映像 私と黒澤明」がある。