昭和から平成の芸能界を代表し、大衆芸能の分野で初の文化勲章を受章した俳優森繁久弥(もりしげ・ひさや)さんが10日午前8時16分、老衰のため都内の病院で亡くなった。96歳。NHKアナウンサーから芸能界入りし、映画「夫婦善哉」「社長」シリーズ、ドラマ「七人の孫」、ミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」などで活躍し、自ら作詞作曲した「知床旅情」も大ヒットした。葬儀・告別式の日取りは未定。喪主は次男建(たつる=66)さん。11日に建さんらが会見を行う。

 所属事務所社長の守田洋三さん(68)によると、森繁さんは建さんと長女の和久昭子さん、多くの孫たちに見守られながら眠るように逝ったという。

 10日ほど前、守田さんが病院に見舞った際は元気な様子だった。さすがに高齢から視力が衰え、最近は読書とは縁遠かったが好奇心は衰えていなかった。NHKの大相撲中継を欠かさず楽しみ、周囲にも「何か面白い話はないか」とよく聞いていた。自分よりも若い芸能界の後輩が亡くなるたびに「また先に逝かれてしまった」とショックを受けていたが、今春には「おれももうすぐ100歳になるから」と快活に話し、守田さんを驚かせたという。事務所も、3年後に控えた白寿(99歳)の祝いに向けて企画を考えていたという。

 午後2時40分。夏から入院していた病院を後にする際には、多くの病院関係者が希代のエンターテイナーを見送った。

 今年5月4日の森繁さんの96歳の誕生日にはひ孫まで一族が世田谷区千歳橋の自宅に集まった。森繁さんも大好きなステーキを食べ、ホットブランデーも口にするなど元気だった。しかし、7月に入ってから体調を崩し、下旬には都内の病院に入院した。

 昭和から平成にかけて芸能界を代表する顔だった森繁さんの人生は波乱に富んでいた。戦前、早大在学中に演劇活動を始めた。東宝劇団を経て、39年にNHKアナウンサーとなり、満州(現中国東北部)に赴任した。45年の終戦で一時ソ連に連行された後、46年に帰国した。妻子を抱えた34歳の時に初志を貫くためにNHKを退社。47年に映画「女優」に端役で出演し、新宿のムーラン・ルージュの舞台にも立った。50年にNHKラジオ「愉快な仲間」に抜てきされて人気者になり、映画「腰抜け二刀流」で初主演した。

 当初は喜劇俳優として頭角を現したが、淡島千景との映画「夫婦善哉」や「警察日記」の演技が高く評価された。喜劇とシリアスな映画を両立させながら「社長シリーズ」など280本以上の映画に出演した。歌手としても自ら作詞・作曲した「知床旅情」が大ヒットするなど、59年から7年連続でNHK紅白歌合戦に出場した。

 ホームドラマの走りだった「七人の孫」や「だいこんの花」で茶の間にも親しまれ、67年には主演ミュージカル「屋根の上のヴァイオリン弾き」が始まった。ロシアのユダヤ人を主人公に父と娘との愛情を描いた作品は上演を重ね、国民的ミュージカルと言われた。森繁さんは最後となる86年までに900回上演し、当時は最多上演記録だった。語りのうまさには「森繁節」と言われるほど定評があり、加藤道子さんとの朗読によるNHK「日曜名作座」は57年から03年まで46年間続いた。舞台、ドラマで多くの共演者から慕われ、その結束は森繁ファミリーと言われたほどで、竹脇無我、松山英太郎、林与一、西郷輝彦、あおい輝彦らが薫陶を受けた。

 00年には胆管結石のため緊急入院し、02年には大みそかに静養先の沖縄で心筋梗塞で倒れた。一時は危篤状態になったが、回復した。その後に仕事復帰したものの、04年にドラマ「向田邦子の恋文」に出演したのを最後に俳優活動を休止した。大御所俳優として芸能関係者の葬儀にはよく参列していたが、06年に盟友の演出家の久世光彦さんの葬儀以来、姿を見せることはなかった。07年には「最後の作品」と銘打って朗読DVD「霜夜狸」が発売された。

 91年に伝統芸能以外では初めて文化勲章を受章し、「森繁自伝」など著書も多かった。90年に50年以上も連れ添った妻の万寿子さんが亡くなり、晩年は「屋根-」の照明の影響などもあって目や耳は不自由となっていた。しかし食欲は旺盛で時々はお気に入りの東京会館にフランス料理を食べに出掛けたり、天気のいい日には車いすで散歩し、松本幸四郎「勧進帳」など好きな俳優の舞台を観劇に行くこともあった。体は衰えたが、気持ちは「生涯現役俳優」だった。多くの人を魅了してきたあの森繁節はもう2度と聞かれなくなった。

 [2009年11月11日9時31分

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