19日午前、東京都内の病院で死去した俳優原田芳雄さん(71)が、03年7月13日の日刊スポーツ「日曜日のヒーロー」に登場しています。当時の紙面を復刻版で再録します。■対人恐怖症のオレが逃げ込んだのは映画という嘘の世界

 今も「俳優」でいる自分に違和感を持っている。俳優になったのは、いわば対人恐怖症のリハビリだったという。日本人形作りの職人だった父親が、戦争によって道具を失い、生活は苦しくなった。

 「おやじは手足である道具をもがれ、女たちは泣きっぱなし。周りを見ると、生き延びようと、それぞれエゴ丸出しで、時に暴力的になる。小学生だったけど、もうここから出たい、そう思ってました。そういうものが徐々に積み重なって、高校に上がったころは、人間と付き合うのが怖かった。大人だとか子供だとか、男だとか女だとか関係なくね」。

 対人恐怖症に陥った原田少年は、山岳部に入った。

 「逃げ込んだのが山だった。解放感は味わった」。

 山を通じて知り合った男と山小屋を経営しようとしたが、その男が山小屋同士のもめ事に巻き込まれ、話はなくなった。俳優座を受けようとした友人が、直前まで迷っていたのを見て、願書を奪って自分が受験した。試験前日に胃けいれんを起こしながらも、何とか合格した。

 「うそっぱちの世界に逃げ込もうとしたんですよ。役といううその世界に入ると、少しは手足が動かせたり、生の声を上げたりできた。どうしようもない自分にとって、驚きだった。そのへんは、今でも基本的に変わってないですよ。映画といううそっぱちの世界にいると、役によって入れ替わりが自由で楽しい。そんなことやっていて、ほどほどにメシ食えて酒も飲める。申し訳ないよね」。

 新聞などに「原田芳雄」と書かれていると「ドキッとする」という。

 「人間を嫌いだったころからこの名前でしょ。今までの人生が、米の中のはい芽のように詰まっているわけですから、役名ではない自分の名前を見ると、何だこりゃと驚いてしまうんです。芸名にしときゃよかったね」。

 俳優座を飛び出し、映画界に活動の場を求め、藤田敏八、黒木和雄、鈴木清順らそうそうたる監督とコンビを組み、キャリアを重ねた。数々の映画賞も獲得。今や日本映画界に欠かせぬ存在となった。

 「俳優としての原動力?

 ものを知らないから、映画を通して、いろんなものと出くわしたいからかな。自分じゃ絶対思いつかないことと出会える。いろんな才能が集まってくるし、ワクワクするじゃない。本当に他力本願だよな(笑い)。たかが知れてるもん、自分の才能なんて。だいたい、自分のカテゴリーの中だけで生きていると、面白いこと、おかしいこと、訳分からないことに出会わない。驚きがない。飽きちゃうよ。だれも見たことのない映画って、きっとあるはずだろうし、自分がこれからどれだけできるか分からないけど、そういうものに出会いたい」。

 「驚きたい」。その言葉通り、昨年から今年にかけて、30代の若手監督たちと3本もコンビを組んだ。主演は窪塚洋介、上戸彩、そして松田龍平。これから、どんな新しい才能と向かい合っていくのだろうか。