「愛のコリーダ」「戦場のメリークリスマス」などで知られる映画監督の大島渚さんが15日午後3時25分、肺炎のため、神奈川県藤沢市内の病院で死去した。80歳だった。96年2月に英ロンドンで脳出血に倒れ、3年のリハビリをへて99年「御法度」で復帰を果たしたが、01年に病状が悪化。以後、神奈川県内で療養とリハビリを続けていた。映画監督としてタブーに挑戦する反骨心を示し、テレビの討論番組などでも、ご意見番として親しまれた。

 96年2月に英ロンドンのヒースロー空港で、出血性脳梗塞で倒れて約17年。大島監督が力尽きた。長男武さん、次男新さんによると、昨年12月中旬に容体が急変して入院したという。妻で女優の小山明子(77)から「あとちょっとでお正月。家族みんなそろうから頑張って」と励まされ、「はい」と答えた。ただ数日前に血圧が低下。15日午後2時ごろに危篤状態になった。最後まで意識はあり「頑張って」と呼びかけられ、うなずいたという。

 遺体は15日夜、神奈川県藤沢市内の自宅に無言の帰宅をした。小山は夫の死をみとった後、東京・池袋で気丈に舞台稽古に参加後、コメントを発表した。

 小山

 倒れてからは体の自由が利かなくて大変な日々でしたが、晩年に2人で濃密な時間を過ごせてありがたいと思いました。介護ではやるべきことはすべてやりました。悔いはありません。これまでは私が支えてあげたので、これからは彼が私のことをしっかり見守ってくれると思います。

 自宅前に集まった取材陣に武さんは「詳しいことは明日お話しします」。新さんも「大往生だと思っています」と言葉少なだった。

 大島監督は小山と夫唱婦随で復活に向けた闘いを続けていた。右半身まひ、言語障害が残る車いす生活を余儀なくされたが、99年に13年ぶりの新作「御法度」を製作。00年カンヌ国際映画祭でレッドカーペットを歩いたが、01年11月に十二指腸潰瘍で再び倒れた。「要介護5」の認定を受け、生活すべてに介護が必要となった。筋力が落ち、失語症にもなり、公の場に姿を見せなくなった。それでも10年10月30日の金婚式は体調が良かったのか、和服姿で1時間半以上も座り続けた。夫婦思い出の曲「有楽町で逢いましょう」を小山とデュエットで歌った。うつ病にかかったというほど献身的な小山の介護で声を取り戻したが、翌11年10月には嚥下(えんげ)性肺炎で一時意識を失った。

 54年に松竹に入社し、60年の「青春残酷物語」などで「松竹ヌーベルバーグ(新しい波)」の旗手と注目された。しかし日米安保闘争を描いた61年「日本の夜と霧」が公開直後に無断で上映中止されたことに怒り、松竹を退社。小山らと製作会社「創造社」を設立して表現の自由にこだわった。

 76年「愛のコリーダ」では大胆な性描写に挑戦。権力の介入を拒みフィルムをフランスで編集したが、日本公開時に大幅な修整を受けた。劇中写真を載せた写真集「愛のコリーダ」を出版したが、わいせつ物頒布罪で起訴。芸術か、わいせつかが問われ、82年に無罪が確定するまで争った。その後、海外に目を向け78年「愛の亡霊」でカンヌ国際映画祭監督賞を受賞した。

 60年代からテレビでも活躍し、ドラマやドキュメンタリーの制作に加え、自らコメンテーターとしてテレビ朝日系「朝まで生テレビ」などに出演。歯に衣(きぬ)着せぬ言葉で社会に問いかけ続けた大島監督は、静かに生涯を閉じた。

 ◆大島渚(おおしま・なぎさ)1932年(昭7)3月31日、岡山県生まれ。本名同じ。京大法学部卒業後、映画会社松竹に入社。大船撮影所の助監督をへて59年「愛と希望の街」で監督デビュー。61年松竹退社後も「愛のコリーダ」「戦場のメリークリスマス」など問題作、話題作を製作。96年に渡航先のロンドンで脳出血で倒れ、リハビリ生活をへて、99年「御法度」を製作。01年以降はリハビリに専念。