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般若心経を唱え悟りの境地に至ったのか/2009年10月30日付

「無」と刻み込まれた松田優作の墓
「無」と刻み込まれた松田優作の墓

 アクションスターとして世界に羽ばたこうとした、その矢先に人生を閉じた松田優作。荒々しいそのイメージとは懸け離れた素顔がある。ひたすら般若心経を唱えながら、彼は何を考え、どう生きようとしたのか。西多摩の霊園にその墓を訪ねる。

 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦
 菩提薩婆訶 般若心経

 般若心経の最後に、こんな呪文(じゅもん)がある。マントラと呼ぶ。「ぎゃーてー、ぎゃーてー…」で始まるそれの、およその意味は「行きて、行きて、悟りの彼岸に行きて、悟りの極みに行きて、悟りよ幸あれ、ここに、知恵の完成に至る者の心を終える」と、解釈するようである。

 1984年(昭59)1月16日、松田優作の母かね子が亡くなった。般若心経を唱え始めたのはこの時からである。未婚の母として、女手ひとつで育ててくれた母親の死。葬儀に立ち会ったある女性宗教家の何げないひと言に心を打たれたからだという。

 「般若心経の写経と座禅を始めてから、いろんなものが見えてくるようになった。先月、寺で座禅を組んだんだが、悟りの境地まで、あと一歩のところまでいった」と言った。前妻松田美智子との会話である。「俳優の仕事は、悟りに至るまでの道程だと思っている」と聞かされたとき、美智子はこの男が一体、どこへ行こうとしているのか、広漠とした思いに駆られた。「悟り」という、その言葉の真意をつかみかねたからである。亡くなる前年、88年12月25日のことだった。

 3カ月前の9月24日、松田は家族とともに、山梨・赤石温泉に出かけた。その帰り道、車の中で「トイレがつらい」と訴え、血尿をみた。荻窪の病院に着くなりストレッチャーに乗せられ、応急処置を受け、そのまま入院した。

 ぼうこうの中ををのぞくと3カ所から出血が認められ、ぼうこう外側上部にできる壁がんと認められた。さらに調べると骨盤に向かってがん細胞が増殖する上皮肉がんと判明した。CTスキャンで見ると、すでにぼうこうの4分の1が侵されていた。兆候は86年ころからあった。しかし「少々の傷はツバでもつけときゃ治る」と育ってきた松田にとって手術を受け入れるはずはなかった。定期通院と副作用の少ない抗がん剤、制がん剤の併用で撮影に向かった。死は確定していた。初のハリウッド進出作品、自らの死によって見ることのなかった映画「ブラック・レイン」のクランクインが迫っていた。

 散歩の途中、神社を見つけると般若心経を唱えた。「お経は神社じゃなくてお寺でしょう」と近くの者がいさめると「信じて唱えるぶんには、お寺も神社も関係ない。おれには般若心経しかないからな。お前も覚えろ」と勧めた。「心が落ち着くから」というのがその理由だった。

 89年、松田が「兄貴」と慕った俳優原田芳雄の母親が急死した。病院から遺体を引き取り、葬儀の段取りをしているときに電話があった。「今、(桃井)かおりと飲んでいるんです。よかったら3人で飲みませんか」という問い掛けに「今それどころじゃないんだ。おふくろが死んだばかりだ」と告げると下北沢から東北沢の、原田の自宅にすっ飛んできた。「あいつはここぞとばかりに般若心経をあげてくれたのです。ありがたかった」と述懐する。原田の家族と、松田と桃井だけの葬式だった。

 何事にも妥協を許さなかった松田は、人との付き合い方が極端だった。撮影現場での、監督、スタッフとの対立は枚挙のいとまがない。映画「誘拐報道」の出演依頼に「子供を誘拐するような役はやりたくない」と断り、伊丹十三の「お葬式」では「(伊丹は)あいつは知識人ではあるけど、それだけだ。知性がないんだよ」と切り捨てた。キャリアの割に、作品の少ない俳優だった。

 そのいら立ちは作品だけでなく、自分の、俳優としての生き方を問い直すことになった。アクションスターとして売り出したにもかかわらず「大の男が、おもちゃのピストル持って、昼の日中から一体何をやっているんだと。いったん、しらけてしまうと、こんなばかげたことはないぜ。へたなウソにはもう付き合いたくない」。本物のアクション映画がやりたかった。いつの間にか芝居の出来る俳優として期待され〝芸術〟を求められると、さらにストレスは高まった。未消化の自分にいら立った。

 だから、般若心経だったのか―。
 「兄貴」原田はその心中を推し量る。

 「般若心経を唱えるのは、肉体的な重労働のようなもので、畑を耕したり、道を掘ったり、青空の下で大汗をかく、それと同じでしょう。何かを得ようということではなく、それをすることで自分の臓物をすっからかんにする。天があって地があるとするならば、天上から地まで突き通すように空気を流したい。内臓から何から全部取っ払って、外も内も気持ち良く風を通したいということでしょう。(中略)般若心経を唱えることが宗教的な感情であることは確かだとしても、宗教そのものではなかった」。

 89年11月8日、東京・三鷹の霊泉斎場で松田の告別式が執り行われた。原田が弔辞を読んだ。

 「優作。おれは今までお前が死ぬとこを何度も見てきた。そしてその度にお前は生き返ってきたじゃないか。役者なら生き返ってみろ! 生き返ってこい!」。

 短い、しかし絶叫に近かった。(敬称略)【石井秀一】

 ★参考資料
 「松田優作クロニクル」(キネマ旬報社)、「永遠の挑発 松田優作との21年」(松田麻妙)、「越境者 松田優作」(松田美智子)ほか。

 ★松田優作の墓
 西多摩霊園(東京都あきる野市菅生716、電話042・558・7731)に眠る。JR青梅線福生駅下車。西口から無料送迎バスが出ている(平日1時間に1本、土日、祝日は2本)。15分ほどで霊園に着く。正門近くに霊園内バスがあり、5番停留所で下車、32区の標識近くの坂を上ると、樹木に覆われた西洋風平板状の墓が見つかる。墓石にはただ1文字「無」。般若心経の経文に頻繁に登場する「無」「不」の文字のうち、ひとつを採用したと思われる。
 墓石の裏側が墓誌と思われ「天真院釈優道居士」が確認できる。

 松田を一躍人気者にしたのはやはり日本テレビでの「太陽にほえろ!」でのジーパン刑事役だろう。ラストシーンは自分が助けた青年に拳銃で腹部を撃たれる。「なんじゃ、こりゃあ」と叫んで死んでゆく。このセリフは当初から予定されていたものではなく、松田の創作だった。
 そしてもうひとつ、現実の死。松田が亡くなった11月6日、元妻の松田美智子は友人と会うために銀座へ出かけた。その出がけ、なぜか愛用の腕時計が動かなくなり、立て続けにストッキングが2足伝線した。息を引き取った午後6時45分、修理を頼んだ時計屋へ出向いたが、腕時計は何の修理もしないのに動きだしていた。後に美智子は作家として独立を決意した。「ものを書いて生きてゆくつもりなら、まず、俺のことから始めろよ」と言われた。洗いざらい描き出す可能性を示唆すると「怖いね。けどいいさ。おまえに書かれるのなら本望だよ」―。

[2009年10月30日付]



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