東日本大震災で最大の犠牲者を出した宮城県石巻市。死者・行方不明者が児童74人、教職員10人という痛ましい被害となった大川小学校の校舎は、6年が経過する今も、大津波の恐ろしさを物語っている。訪れると、今も他県ナンバーの車がいて、鎮魂の祈りをささげていた。

 石巻の中心部を流れる旧北上川の中州にある「石ノ森萬画館」も当時、津波被害に遭った。記者が震災数日後に行くと、すぐ近くの橋の上には流された一軒家がそのまま乗っていた。その脇を被災者が徒歩で通る光景だった。今考えると危険だが、物資を仕入れるため川を渡るにはそうするしかなかった。今では橋は修繕され、ひっきりなしに車が行き交っていた。

 次に向かったのは仙台市荒浜。震災当日の夜、携帯電話のニュース速報に「荒浜に200~300の遺体」という衝撃的な情報が入った(正確なものではなかったとされる)。記者は仙台の支局勤めだったため翌早朝に取材したのが荒浜だった。海岸から街を見渡しても何もない。津波の力で曲がった木々、むき出しになった住居の基礎…。荒野の奥を見ると仙台中心部の高層ビルが見える。同じ市とは思えないコントラストだ。

 ふと砂浜を見ると高齢の男性が小石やゴミを拾っていた。荒浜で、おいの奥さんと子ども、自宅を失った佐藤豊さん(79)。11日に鎮魂のための「能」が行われるため、舞台となる砂浜をきれいにしていた。「はだしで踊られる方に安全にと思ってね」。

 海岸には地元の40代が中心となって交流の場「海辺の図書館」を建てた。彼らが主催者となって、3・11の鎮魂イベントを主催した。佐藤さんは「荒浜を忘れないように頑張っている。だけど、家族を亡くした、おいからすると『お祭り騒ぎしないでほしい』という思いなんだ」と複雑な心境を語った。

 宮城県沿岸で最後に訪れたのは福島県境にある山元町。震災前のJR山下駅に向かってみると線路も駅舎もなく、雑草に隠れたホーム跡だけが確認できた。その前にある「橋元商店」の店主・橋元伸一さん(56)は「売り上げは3分の1になった」と語った。その理由は駅の移動だけでなく「復興計画に失敗し、町を出た町民が戻ってこないからだ」と訴えた。

 「南三陸町、女川町は成功例。山元町は失敗例だ」と言い切る。復興計画に納得がいかなかった橋元さんは15年10月の町議選に初出馬し、見事トップ当選を果たした。「南三陸、女川は行政と地元住民が時間をかけて話し合った。山元町は時間短縮のためにとトップダウンで行ったから、今になって不具合が出て、足踏みし、結果的に1番遅れている」と話す。

 JR山下駅は約1キロ、内陸側に再建された。その駅前にはスーパー、薬局、小学校、保育所、住宅地が整備された。その計画について「小学校が駅前にある必要があるんですか? 電車で通うんですか? 全ての機能を1カ所に集中させたら、町の他の部分はどうするんですか」と疑問を呈した。

 町議になろうなんて震災前は1度も考えたことはなかった。しかし、「今の復興計画は被災者のための計画ではなく、全く新しい街づくりをするためだけになっている。私はここが大好きです。なんとかここで育った人が喜べるようにしたい」と意気込んだ。【三須一紀】