訃報 安らかなご永眠をお祈りいたします

淡谷のり子さん 老衰のため死去

淡谷のり子さん遺影  「別れのブルース」「雨のブルース」などのヒット曲を持つ歌手淡谷のり子(本名淡谷のり)さんが22日午前4時30分、老衰のため東京都大田区内の自宅で死去していたことが25日、分かった。92歳。淡谷さんは今夏の猛暑で体調を崩し、家族たちに見守られ息を引き取った。「ひっそりと送ってほしい」の遺志で死去は伏せられ、この日、都内で親族だけで通夜が営まれた。約70年、戦前、戦後を通じて日本の歌謡界を生きたブルースの女王が、現役歌手のまま静かに逝った。
(写真=祭壇に飾られた淡谷のり子さんの遺影)

寝たきりの状態

 生涯現役を貫いたブルースの女王が、ひっそりと旅立った。今夏の猛暑で体調を崩していた淡谷さんは、22日早朝、同居していた妹のとし子さん(90)や1人娘の奈々子さん(60)夫妻らに見守られ、東京都大田区上池台2の18の8の自宅で、眠るように静かに息を引き取った。取材にとし子さんは「とても穏やかな顔でした。ファンの皆さまには、本当にありがとうございました」とだけ言葉少なに話した。

 事務所関係者によると、淡谷さんは1993年(平成5年)に一過性脳虚血で倒れてからは、車いすでの生活を余儀なくされてきた。一時は復帰したものの、最近は体力もなくなり寝たきりの状態だった。さらに今夏の猛暑が食欲も奪い、衰弱していった。それでも、先月12日にはベッドの周りで92歳の誕生会が開かれ、ハッピーバースデーの曲に淡谷さんは笑顔でこたえたという。  淡谷さんは子供のころから歌が好きで、東洋音楽学校(現東京音大)にクラシック音楽を学ぶために進学。絵のモデルのアルバイトをするなど、苦学の末に首席で卒業。「10年に1人のソプラノ」と言われたが、クラシックでは生計が立たず、29年に歌手デビューした。

 流行歌を歌ったことで母校の卒業生名簿から除籍される悲哀を味わったが、37年に「別れのブルース」が大ヒット。圧倒的な声量で人気を集め、その後も「雨のブルース」など、哀調を帯びたブルースものが次々とヒットして「女王」の冠がついた。もっとも、本人は「私の場合のブルースは単にタイトルで、黒人音楽とは全然、別もの。間違っちゃいけませんよ」と語っていた。

津軽ジョッパリ

 歌手として人気が出る一方で、津軽のジョッパリ(強情張り)精神に支えられた反骨精神や強固なプロ意識は、世代を超えて共感を呼んだ。軍国主義一色の中でも、濃い口紅やパーマを愛国婦人会のメンバーに非難されると「歌手の化粧はぜいたくではありません」と反論。戦地での慰問公演では、退廃的と発売禁止になっていた「別れのブルース」などの外国曲を堂々と歌った。39年には未婚で1女をもうけていたことを公表するなど、奔放な行動ぶりも注目を集めた。

向上心は衰えず

 歌謡界のご意見番として毒舌を振るったが、言葉の裏には温かさをにじませた。98年10月、青森市から名誉市民に選ばれ笑顔を見せたのが、マスコミの前に見せた最後の姿だった。「勉強するしか道はない」「苦しみ、悩み、努力がない歌はインチキ」と向上心は衰えず、体は動かずとも最後まで現役意識を貫いた。口癖は「歌と一緒に死んでいきたい」。その言葉通りの人生だった。淡谷さんの事務所によると、あらためてお別れ会を行うという。

◇淡谷のり子さんの主なヒット曲◇
曲  名 世  相
29年(夜の東京) 世界恐慌はじまる
30年(ラブ・パレード) 独でナチス党躍進
31年(私此頃憂鬱よ) 満州事変ぼっ発
32年(唄はない恋の唄) 5・15事件起きる
33年(海ゆく君に) 国際連盟を脱退
34年(恋の月) 室戸台風大阪上陸
35年(愛のセレナーデ) 初の映画館が開場
36年(涙の踊子) 初の職業野球開始
37年(別れのブルース) 日中戦争はじまる
(秋のブルース) 大本営令が公示
38年(人の気も知らないで) 国家総動員法公布
(雨のブルース) 東京五輪中止
(月の小みち) 勤労動員が始まる
39年(東京ブルース) 学生の長髪、
(夜のタンゴ) パーマネントが禁止に
40年(満州ブルース) 日独伊三国同盟
41年(すずかけの道) 太平洋戦争始まる
48年(嘆きのブルース) 美空ひばりデビュー
(君忘れじのブルース) 初のナイター
49年(黄昏エレジー) ビアホールが復活
50年(東京ルンバ) NHKが実験放送
52年(星降る港のブルース) 日航機三原山墜落
53年(ルンバ・サファイヤ) 街頭テレビブーム
54年(雨のプラットホーム) 自衛隊が発足
60年(忘れられないブルース) 新安保条約が成立
63年(遠い日のブルース) 三池炭鉱爆発事故
71年(昔一人の歌い手がいた) マクドナルド開業
78年(シャルメーヌ) キャンディーズ解散
92年(抱いて) 「のぞみ」運転開始
93年(揺り椅子) 皇太子ご成婚

ひっそりと通夜 葬儀日程発表されず

 25日午後6時から、東京都品川区西五反田5の6の8、安楽寺別院で淡谷さんの通夜がひっそりと営まれた。たくさんの花に囲まれた遺影は15年前のステージ写真が使われ、棺(ひつぎ)の中には、おしゃれが好きだった淡谷さんのために化粧道具やアクセサリーが納められた。通夜には近親者だけ約20人が参列し、芸能人の姿はほとんど見られなかった。報道陣約50人が集まったが、静かにしてほしい、という淡谷さんの生前の強い希望で取材などはできなかった。告別式の日程などは遺族側から発表されていないが、きょう昼にも同寺で行われるとみられる。


淡谷さん語録

 「これで電気をつけて、ふろに入れる。これから自由に歌も歌えるし。玉音聴いてみんな泣いていたけど、私はニコニコでした」(1945年8月、終戦を迎え)

 「今の若い歌手のひどいこと。のど自慢で、かね1つといったようなものが、恥も外聞もなく盛んに歌っている。テレビのスイッチを思わず切りたくなるような歌手が多いんで、嫌になっちゃいますよ」(64年1月、シャンソン教室開講に当たって)

 「今の若い歌手は歌手じゃなくて『歌屋』にすぎない」(65年のNHK紅白歌合戦を前に発言。賛否両論を巻き起こした)

 「40年を支えてきたのは『強情っ張り』な性格でしょう」(69年8月、デビュー40周年記念リサイタルを前に)

 「懐メロ歌手と呼ばれるのが一番いや。私は今でも新しい曲を歌い続けている。そのことを全国の皆さんに知ってほしい」(73年10月、全国縦断ロング・リサイタルを開催し)

 「古いだけの骨とう品じゃないのよ。もう1回クラシックを勉強したいの」(78年9月、デビュー50周年リサイタルで)

 「片平なぎさ? 知らないわ。私がモデルのドラマなら(故)太地喜和子か桃井かおりにやってもらいたいものね」(79年1月、自伝ドラマの制作発表に欠席し)

 「レコード大賞も歌手を堕落させる原因ね。賞を取ればギャラも上がるから血眼でしょう。歌手はね、お金のために歌うようになったらおしまいよ」(79年12月、芸能学校設立に当たり)

 「だいたい鼻にかかったあの子の声、いったい何ですか。結婚したら、もう2度と歌謡界に出て来るな」(80年11月、山口百恵の結婚・引退について)

 「(西城)秀樹は、前には見どころのある子だと思ったけど、跳んだりはねたり、あれはいけません。松田聖子? だあれ、その人。歌の土台ができてなくて、何ですか、リヒィーッとニワトリが首を絞められたような声を出して、あれが歌い手の発声ですか!」(80年11月、新聞のインタビューで)

 「演歌を聴くと胸がムカムカするから、あれが聴こえてくると逃げ回るんです。貧乏くさくて」(81年7月、テレビ朝日のドラマ「おやじの台所」に出演し)

 「あたしはね、やれるところまでやりますよ。歌と一緒に死んでかなきゃいけない、と昔から思ってるんだ」(82年8月、新聞のインタビューで)

 「冗談ではなく不感症になってしまったくらいです。不幸な初体験でした」(84年3月、自伝「私のいいふりこき人生」を出版、レイプされて初体験したことを明かし)

 「化粧品持って来て」(92年2月、風邪でダウン。入院初日にマネジャーに対し)

 「ヘアヌードなんて、ただべローンと裸になるだけ。心の中に何か持ってないと」(94年9月、第20回歌謡祭で)

船村徹氏「一言一言に慈愛が…」歌謡界の大御所が人柄しのぶ

 淡谷さん死去の報に25日、後輩の歌謡界の大御所たちが口々に淡谷さんの人柄をしのんだ。後輩に対する愛情あふれる人柄を懐かしむ声が多かった。東洋音楽学校(現東京音大)の後輩でもある作曲家の船村徹氏(67)は「淡谷先生は『歯に衣(きぬ)着せぬ人』と言われたが、一言一言に慈愛がこもっていた。大衆音楽の世界に残した業績は計り知れない」と惜しんだ。

 淡谷さんからかわいがられたという歌手雪村いづみ(62)は「すべてのことに信念を通すさまは日本人離れしていた。後輩には厳しく、お辞儀や席順などいろいろ教えていただいた」。福岡・博多座で公演中の歌手北島三郎(62)は、3年前に淡谷さんと会ったのが最後だった。「『あなたは演歌もいいけどジャズを歌っても素晴らしいと思うよ』と言っていただいたあの日が最後となりました」と語った。

 後輩たちは「ブルースの女王」として音楽界に大きな足跡を残した淡谷さんの、歌に対する真剣な姿勢にも影響を受けている。雪村は「ピアノに寄りかかってでも歌っていた歌への情熱。私も歌手としてあんなふうになりたい」と決意を語った。

淡谷のり子さん「米寿を祝う会」

美川憲一「歌、心の師」

 淡谷さんと親しかった歌手美川憲一(53)はこの日、仕事先の福岡で淡谷さんの訃報(ふほう)を聞いた。美川は「このたび、大先輩淡谷のり子さんの訃報を聞き、大変心を痛めております。歌そして心の師と仰いでいました淡谷先生の突然の死去、今はただ悲しい思いのみです」とのコメントを発表した。淡谷さんは美川の歌手としての才能を高く評価。美川が1984年(昭和59年)に覚せい剤使用と大麻所持で逮捕された時、淡谷さんは東京地裁に減刑を求める嘆願書を書いたほど。96年(平成8年)に都内ホテルで行われた淡谷さん現役最後のステージで、淡谷さんは美川に自らの大ヒット曲「雨のブルース」を譲り渡した。
(写真=96年6月19日「米寿を祝う会」で森光子、島倉千代子(前列右から)らに囲まれる淡谷のり子さん(同中央))

眠るように

 扇ひろ子何度も見舞い 東京都大田区の淡谷さんの自宅近くに住む演歌歌手の扇ひろ子(54)は、何度も淡谷さんを見舞いに訪れたという。25日朝も淡谷さん宅を訪れた扇は「クラシックを聴いたり、テレビを見たりしていつもニコニコされていた。昔の青森の話を懐かしそうにしてくれたのが印象的でした」。家族が交代でそばに付いていたが、最期は眠るように息を引き取ったという。

明るく朗らかな方

 歌手石井好子(77)の話 淡谷さんは、まだだれ1人見向きもしなかった戦前から、シャンソンを歌ってきた人で、私たちシャンソン歌手の大先輩。明るく朗らかな方で、生涯を歌手として生きた人だった。私がまだ歌を歌い始めたばかりのころ、コンサートで淡谷さんの歌を歌った時に花束を持って来てくださったことが忘れられない。

先生は日本の宝物

 後輩歌手の島倉千代子(61)の話 淡谷先生は日本の宝物なんですよね。先生のお歌は、みんな好きですが、晩年にお歌いになられた「恋人よ」は素晴らしかった。心からごめい福をお祈りいたします。

厳しくもアドバイス

 歌手五木ひろし(51)の話 僕が「全日本歌謡選手権」で10週勝ち抜いた時に、審査員をされていたのが淡谷さんでした。勝ち抜いても「この歌は巻き舌で歌っちゃダメよ」などと、厳しくもアドバイスを頂いたのを今でも思い出します。この番組で、僕は歌手として本当のスタートを切ったわけですから感謝の気持ちでいっぱいです。

最も尊敬する大先輩

 歌手吉幾三(46)の話 郷土(青森県)の大先輩として、最も尊敬する歌手のお1人でした。本当に残念です。大阪での公演を終えたらすぐにでもお悔やみに駆けつけたいです。

華やかで威厳あった

 社民党党首土井たか子氏(70)の話 淡谷先生とは18年くらい前からの長い付き合いでした。時代を超えて、歌の道一筋で、中途半端が嫌いな方でした。それでいて、華やかで威厳がある。私のあこがれの人でした。あのような方は2度と出ないでしょうね。

温かく優しかった

 女優伊藤つかさ(32)の話 淡谷さんとは私の初舞台「不思議の国のアリス」でご一緒しました。ミュージカルも初体験だし、歌の経験も少ないので「怒られるかな」と緊張していたんです。ところが、淡谷さんは本当に温かくて優しい、すてきな方でした。

大事な人亡くした

 歌手協会会長の田端義夫(80)の話 日本の歌謡界に大きな足跡を残し、僕ら後輩たちにも大変な影響を与えた方でした。本当に大事な人を亡くしました。歌手協会が主催する「歌謡祭」などにも、よく顔を出していただきました。最近は、お顔を拝見しなかったので、とても心配していたんですが。青木(光一)理事長と先ほども話したんですが、協会としても何かメモリアルなことをしたいと考えております。
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