南海(現ダイエー)の元監督でホークス黄金時代を築いた鶴岡一人(つるおか・かずと)氏が7日午前5時5分、動脈血栓症による心不全のため大阪市福島区の関西電力病院で死去した。83歳だった。監督として通算1773勝は史上最多。1959年(昭和34年)の日本シリーズでは、エース杉浦を擁し巨人に4連勝、御堂筋パレードでファンを熱狂させた。人情味あふれる性格から「親分」と慕われた名監督は、20世紀最後のシーズン開幕を前に逝った。
退院の直前大阪府堺市の鶴岡家に午後0時40分、主(あるじ)が無言のまま帰宅した。関西電力病院に入院したのは、先月8日のことだった。病名は死因の動脈血栓症と関係のない「腸炎」。今月中旬には退院するはずだった。同病院の梶山担当医は「午前2時に腹痛を訴え(死因は)急性に近かった」と話した。鶴岡氏の球歴は、アマ時代から華やかだった。広島商の一員として1931年(昭和6年)センバツに優勝。法大では好打堅守の三塁手として鳴らした。39年に南海入りすると、3番を任されいきなり本塁打王のタイトルをつかんだ。 そんな名選手鶴岡の評価をより高めたのは46年、監督(選手兼任)を29歳の若さで任されたその手腕だった。ある年は、機動力を前面に、木塚、蔭山、岡本、飯田を並べ「百万ドルの内野陣」と形容された。野村、穴吹、寺田ら大砲をそろえた「四百フィート打線」を形成したこともある。自軍の戦力を冷静に見て、常に強力チームをつくり続けた。 データ先駆「グラウンドにゼニが落ちている」。今も残るセリフで、選手にゲキを飛ばした。「バカたれ」としわがれた声で怒鳴りつける指導で、選手を育てあげた。黄金時代の中心選手、野村、広瀬、皆川らは2軍から上がってきた無名選手。鶴岡氏は一方でデータを活用する先駆けだった。スコアラーを置いて情報を収集し、さい配に生かした。当時では画期的なことだった。長嶋奪われ50年のセ・パ分立後、4度リーグ優勝しながら日本一の座は巨人に阻まれた。「竹ヤリ軍団が機関銃部隊に対抗するにはスーパースターが必要」。立大長嶋の獲得に動き入団寸前まで話を進めながら、巨人にさらわれた。そのうさを晴らすように、59年の日本シリーズでは同じ立大から獲得した杉浦の4連投で4連勝。御堂筋パレードの興奮は今も語り草になっている。南海一筋。65年には殿堂入りした。「親分」と恐れられ、慕われ続けた名将が静かに逝った。あのしわがれ声の名セリフは、もう聞かれない。
長嶋監督「球界葬」提案巨人長嶋監督が、故鶴岡氏の「球界葬」を提案した。7日朝、遠征先の岡山市内のホテルで訃報(ふほう)に接し「正直、暗い朝を迎えました。残念でなりません」と声を落とした。「プロ野球界に貢献された業績は永遠に輝き続けます。個人的な考えではありますが、球界全体で、何か球界葬みたいなものを願っております」と話した。鶴岡氏とは因縁深い。立大からプロ入りする際、最も早く、熱心に南海入りを勧めたのが鶴岡氏だった。結局、故郷千葉に近い東京の巨人を選び、断りのあいさつに出向いた時に逆に励まされたという。「それで良かった、君は東京6大学の出身だから賢明な選択だった、と落胆も怒りも見せず、逆に激励されました。鶴岡先輩の人柄に敬意を感じ、懐の大きい野球人だという強烈な印象を持ちました」。 プロ入り2年目の1959年(昭和34年)には、日本シリーズで鶴岡南海と対戦。4戦4敗と完敗した。「あの選手権のことは今でも思い出します。その時代、名将と呼ばれた方は多かったですが、大阪という土壌の中では、鶴岡親分ほど南海ホークスに似合った監督はいなかった。選手時分だけではなく、私が指導者になってからもたびたび激励を受けました。常々、敬愛の念を持って接しておりました」。思い出を振り返り、故人のめい福を祈っていた。
▼僕の心に40代の姿ダイエー王監督 プロに入った昭和34年に南海と日本シリーズをやって、0勝4敗で負けた強烈な印象がある。昭和39年には欧州に招待旅行で2週間くらい一緒だったこともある。グラウンドでは穏やかな表情でにこやかな人だった。いつも『ワンちゃん、ワンちゃん』と言ってかわいがってくれていた。監督としては今の監督像と違って、マスコミや選手とも距離を置いた感じだった。83歳ということですが、僕の心の中では、今でも40代くらいの若いころの鶴岡さんが生きています。
▼言葉の端に温かみ森祇晶氏(日刊スポーツ評論家) あの当時の南海といえば、杉浦さんや野村さんもいたが、やはり鶴岡さんの存在が大きかったです。日本シリーズで南海(現ダイエー)に巨人が4連敗したことが一番の思い出ですね。ただグラウンドで対決していたものの現場では直接お目にかかることはなかった。後に評論家という立場で同じNHKに所属したことから顔を合わす機会にも恵まれましたが。言動は激しい方でしたが、言葉の端はしには温かみがあって情を感じる方でした。戦後の混乱期に今のプロ野球界を支えた大功労者として忘れてはならない人。鶴岡さんが球界に残したものをしっかりと受け継いでいかなきゃいけないとも思っています。
▼慈愛に満ちた先輩金田正一氏 セとパで違っていたけど、とってもいい人だった。後輩に思いやりがあり、慈愛に満ちた先輩だった。10年選手で国鉄を出るときに鶴岡さんに誘われて、じっくり話したことがある。心から哀悼の意を表したい。
▼解説4年間一緒に近鉄梨田監督 今朝、球場へ向かう途中、車のラジオで(訃報を)聞きました。親分と言われてたように、私もいろいろとお世話になったし、現役時代から気さくに声を掛けてくださった。解説者時代の4年間は、NHKでご一緒させていただいた。最後にお会いしたのは昨夏、大阪ドームで行われた世界少年野球大会の開会式。一緒に並んでいたことを思い出します。ご冥福(めいふく)をお祈りします。
▼情を優先した人杉浦忠氏(南海黄金時代のエース) 思い出がたくさんありすぎて……。肩を手術した1961年(昭和36年)、投げられないのに日本シリーズのベンチに入れてもらった。情を優先してくれたのが忘れられない。野球に限らず、こんな時鶴岡さんならどう対処するだろうかと考えてきた。わたしの教科書のような人でした。
▼野球で友人作れ近鉄岡本伊三美球団代表(南海黄金時代の主力打者) 体調があまり良くないというのは聞いておりましたが、訃報(ふほう)を聞いてただただ驚いています。鶴岡さんには「野球以外のことを考えるな。プロ意識を持ってゼニを稼げ。しかし、そのゼニはファンからもらっているものだから、それを忘れるな」と、よく言われていました。また「野球を通じて多くの友人をつくれ」という言葉も強く印象に残っています。これからまた鶴岡さんの遺志を継ぎ、私が野球界で学んできたことを少しでも還元していきたいと思います。ご冥福(めいふく)をお祈り致します。
▼監督価値観示した中西太氏(南海と競り合った元西鉄の強打者) 人を愛し、野球を愛し、パ・リーグをこよなく愛した人だった。苦しい時代を努力と工夫で乗り切り、三原さんともども監督の価値観を示された。ライバルの西鉄の選手だったのに励ましてくれ、大きな糧になった。
▼プロ誘ってくれた稲尾和久氏(元西鉄のエース、日刊スポーツ評論家) 私が高校2年の冬、別府まで足を運んで、プロの世界に誘ってくれたのが鶴岡さんだった。高校を卒業したら漁師になろうと思っていたし、プロの選手になれるとも思っていなかったので、正直言って驚いた。その当時は甲子園という目標があり、プロ入りの際も縁がなく西鉄に入団したが、鶴岡さんとお会いした時に『オレの目に狂いはなかった』と言ってもらったことを覚えている。昭和30年代は鶴岡、三原の両監督がパ・リーグの黄金時代を築いた。そういう人がいなくなってしまうのは寂しい限りです。
▼声だけで有難い人オリックス高畠康真打撃コーチ(56=元南海選手、コーチ) 突然のことでびっくりした。わたしが新人の時(68年)が鶴岡監督の最後の年。遠い存在で、声を掛けてもらえただけでありがたい人でした。
▼人使いうまかった森下正夫氏(鶴岡監督の下で選手15年、コーチ3年) 僕は怒られ役だったけれど、人使いのうまい人だったよ。どこの会社の社長になっても天下一品になるくらいだったな。野球人生の中で、その教えは骨まで染み込んでいる。寂しいなあ。
▼嬉し「小憎らし」オリックス河村英文投手コーチ(66=元南海投手コーチ) 西鉄の若手投手だった時、南海相手に成績がよかった。南海監督の鶴岡さんから「小憎らしい(背番号)15番やな」と言われてうれしいような気持ちだったことを思い出す。その後南海の投手コーチを務めたこともあったが、最近はお会いすることも減っていた。訃報(ふほう)を朝のラジオで聞いて、びっくりした。
▼プロアマ両方貢献日本高野連・牧野直隆会長(89) プロ、アマ関係なく、非常に野球に貢献された人でした。人柄もよかった。早くに亡くなられて、たいへん残念です。
▼兄のような存在…川島広守コミッショナー 現役選手、南海監督としての数々の功績もともかくユニホームを脱いだ後も野球殿堂入りの特別表彰委員を務めていただいたり、少年野球の育成に励まれたりと日本野球の発展に尽くされた方だった。いつ、お会いしても野球を語って尽きることがなく、しかもあるべき姿を直言してくださった。私自身にとっては兄のような存在でした。
▼人間味あふれた方原野和夫パ・リーグ会長 戦後の人心落ち着かない時期に南海の目覚ましい活躍はパ・リーグの発展はもちろん、たくさんの人たちに喜びと大きな希望を与えてくれました。今日のプロ野球には多大な貢献であり、引退後は少年野球にも深くかかわられ感謝するばかりです。「親分」といわれるように人間味あふれた方でした。個人的にも尊敬しており誠に残念です。
▼打倒セに不屈闘志高原須美子セ・リーグ会長 鶴岡さんは一度もセ・リーグに所属したことはありませんでしたが、逆に「打倒巨人」「打倒セ・リーグ」を目指し、何度はね返されても不屈の闘志で挑戦を続けて1959年(昭和34年)と64年には日本一に輝きました。65年にはよきライバルだった川上哲治さんとともに野球殿堂入りも果たされました。「グラウンドにゼニが落ちている」の鶴岡さんの言葉は、ある意味でプロ野球の本質を端的に表現した至言で、鶴岡さんのお名前とともにいつまでも残る名言だと思います。
▼今は息子で光栄…鶴岡一人氏の長男山本泰氏(現近鉄スカウト) 今年いっぱいは大丈夫と思っていたんですが……。最後まで怖かったですね。おやじと比較されて、プレッシャーになっていた。一生抜けそうにない親だったので息子としてもつらかったけど、今は(息子で)光栄かなという気持ちです。
野村監督無言…亀裂残る?鶴岡さんの訃報(ふほう)を、阪神野村監督は神妙に受け止めた。「お体の調子がすぐれないとは聞いておりましたが、突然の悲報に大変驚いております。謹んでご冥福(めいふく)をお祈りいたします」。球団広報部から、野村監督のコメントが発表された。チームは巨人戦を控えて岐阜入り。新大阪駅に姿を現した野村監督は、鶴岡さんに関する質問については口を開こうとせずに無言を貫いた。南海監督解任の際、大物OBの鶴岡さんがかかわっていたとの思いから亀裂が生じ、まだそのわだかまりは消えていないようだった。
現役から監督時代まで手ごわいライバルだった川上哲治 鶴岡さんとは現役時代から指導者までずっと敵、味方に分かれてしのぎを削ってきました。プロ野球の草創期、戦後の復興期、ライバルではあったけれど野球の育成、発展に励んでいたという点では心の通じ合った仲間であり、同志でした。死去の知らせを聞き残念というより寂しい気持ちでいっぱいです。私が赤バットを使用していた1リーグ時代の1949年(昭和24年)のこと。当時の巨人―南海戦は因縁試合として異様な盛り上がりを見せ、4月12日からの3連戦(後楽園)は歴史に残るトラブルシリーズになりました。第1戦は私のプロ野球史上初の逆転満塁サヨナラ本塁打で巨人が勝ち、1勝1敗で迎えた第3戦では三原脩監督(巨人)が相手捕手を殴るという有名な「殴打事件」も発生しました。鶴岡さんは血気盛んな青年監督兼プレーヤーとして、ハツラツとさい配をふるっていました。 そして、私が巨人の監督に就任した61年当時は南海の黄金時代を築き上げ、巨人に大きく立ちはだかりました。鶴岡さんの人情を慕って非常に結束力の強いチーム。この年の日本シリーズは4日も雨で流れる天候不順が巨人に幸いして勝つことができましたが、本当に手ごわいライバルでした。ユニホームを脱いだ後も片時も野球を忘れず、少年野球の指導などに打ち込んでおられました。いまはもうゆっくりして、天国で好きなお酒でも飲みながら野球を楽しんでください。(日刊スポーツ評論家)
今でも耳元によみがえる40数年前の「もう帰れ」広瀬叔功 初めてかけてもらった言葉は「もう帰れ!」だった。南海に入って2年目(1956年)の春、キャンプ。1軍で練習をさせてもらい、シート打撃で三塁打を飛ばした。ゆうゆうのセーフで得意満面……。威厳にあふれた親分に呼び寄せられた時には、てっきり褒めてもらえるものとばかり思っていた。それが「何で滑らないんや。おまえみたいなヤツはもう帰れ!」としかり飛ばされた。理不尽だ、と思った。そのまま宿舎に帰って「野球をやめます。やめて大学を受験します」と、村上(一治)コーチに言った。翌朝早く、村上コーチに宿舎に連れていかれたら、鶴岡さんがいた。「おまえ、やめる言うたそうじゃなあ」「ハイ」「大学行っても、もう野球はできんぞ」「そのつもりです」。神様みたいな大監督が少し戸惑った顔になった。そして、次の言葉は「よし、今日からもういっぺんやれ!」だった。 当時の南海はベテラン勢がたくさんいて、全力疾走などはほど遠いチームだった。そんなベテランにカツを入れるために、若い私をやり玉にあげたのだろう。そんな説明など一切なかったけれど、親分の顔と脈絡のない励ましの言葉だけで十分だった。その日から必死に練習した。 絶対的な権力者で、妥協をする姿は見たことがない。口べたで、心の中だけで他人の理解を得る努力をした人でもあった。ただ、選手の姿は常にどこかで見守ってくれていたのだろう。ノムやん(阪神野村監督)や私を見いだしてくれたのは親分以外のだれでもない。 古風な監督であったが、野球においては現代的なセンスがあった。尾張(スコアラー)メモを駆使したデータ野球は、親分が草分けであった。 野球殿堂に入れてもらった時(昨年1月)、真っ先に電話をいただいた。「おめでとう。パーティーするぞ」。昨年11月、親分に喜んでもらいたいから大阪でパーティーをした。が、その直前に体調を崩された。残念だった。 「帰れ!」という40余年前の怒鳴り声が、今、奇妙なほど耳元によみがえる。今は、ただ合掌……。 (日刊スポーツ評論家・南海黄金時代の主力選手)
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