1960年代に活躍したグループサウンズ「ジャッキー吉川とブルー・コメッツ」のボーカル井上忠夫(いのうえ・ただお)さん(58)が、東京・六本木の自宅で首つり自殺したことが30日、分かった。この日午前5時ごろ、自宅階段の踊り場で首をつって死亡しているのを妻洋子さん(50)が発見した。井上さんは自身の目の病気と、病気がちだった洋子さんの看病に疲れていたという。「治らない。ごめん」などと書かれたメモが見つかった。ブルー・コメッツでは自ら作曲した「ブルー・シャトウ」が大ヒットし、解散後は井上大輔の名前で作曲家として活動し、「2億4千万の瞳」「ランナウェイ」など数多くのヒット曲を生み出した。
ガウンのひもで井上さんは3階建て自宅の階段の踊り場から屋上につながるはしごに、ガウンのひもを縛りつけて首をつっているのを妻洋子さんに発見された。洋子さんが近所のコンビニエンスストアの女性店員に通報。店員が巡回中の警察官に届け出た。救急隊員が駆けつけたが、すでに死亡していた。麻布署によると、井上さんはシャツにズボンの普段着姿で、足元にはA4サイズのメモ書きが置いてあった。洋子さんにあてて「治らない。ごめん」などと書かれてあったという。 井上さんは今年3月、目の網膜剥離(はくり)の手術を行ったばかりだった。術後の経過は思わしくなく「もう1度手術を受けたい」などと周囲に話していた。洋子さんも病気がちで、突然パニック状態に陥るなどの症状で十数年前から入退院を繰り返していた。同居していた洋子さんの母が3年前に亡くなり、子供もいないことから、井上さんが1人で看病していた。これらの心労が重なったことが、自殺の引き金になったとも考えられる。井上さんのマネジャーは「昨日(29日)夜に電話で話をしたばかりなのに。次の仕事も決まっていて意欲を見せていた。自殺をする様子はうかがえなかった」と話した。 井上さんは1960年(昭和35年)にブルー・コメッツに参加。グループの多くの曲を作り、67年楽屋でわずか3分間で作曲した「ブルー・シャトウ」が、当時としては異例の100万枚を超えるヒット曲になった。 日本中に替え歌「森と泉に囲まれて」で始まるこの曲は「森とんかつ、泉にんにく……」という替え歌まで生まれ、小学生から大人まで幅広く口ずさまれた。この年、日本レコード大賞を受賞。前年の66年にはスパイダースなどグループサウンズのライバルに先駆けて、NHK紅白歌合戦に初出場。ブルー・コメッツは美空ひばりさんのヒット曲「真赤な太陽」のバックコーラスも務めた。今日結婚30周年グループ解散後は、井上大輔の名前で作曲家に転向。フィンガー5「恋のダイヤル6700」「学園天国」、シャネルズ「ランナウェイ」、郷ひろみ「2億4千万の瞳」、シブがき隊「NAI・NAI16」など演歌歌手からアイドルまで多くのヒット曲を手掛けた。当時音楽チャートのベスト10には必ずといっていいほど井上さんの作品が入り、「当たり屋」というニックネームもついた。映画「機動戦士ガンダム」の主題歌「哀戦士」を自ら歌いヒットさせたこともある。またコカ・コーラのCMソング「アイ・フィール・コーク」などのCMソングも作曲した。今日31日が結婚30周年の記念日だった。井上さんは洋子さんのためにプレゼントとケーキを用意していた。洋子さんは大きなショックを受け、この日は自室にこもったままだった。
井上さん、元メンバー高橋さんと前日電話
自殺した井上忠夫さん(享年58)の東京・六本木の自宅には、リーダーのジャッキー吉川(59)らブルー・コメッツのメンバーが訪れ、井上さんの遺体と悲しみの対面をした。ベースの高橋健二さん(58=会社経営)は前日29日に井上さんと電話で話した。そのとき井上さんは「体調が悪い」と訴えたという。6月26日にメンバー全員で集まる予定だった。
吉川涙、涙…井上さんの遺体と対面したジャッキー吉川は「顔は若いときのままだった。もう1度一緒に演奏したかった」と言葉を詰まらせた。リーダーは吉川だったが、音楽面でバンドを引っ張ったのは井上さんだった。「音楽については、彼がすべてやっていた。大ちゃんがリーダーでした。ここ数年は会っていなかった。こんな形で会うのはとても悔しい。病気は知らなかったんです」。さらに「売れない時は貧乏で、新宿で大ちゃんと1人前のギョーザを分け合って食べていたことを思い出しました」と語ると、後は涙で言葉にならなかった。
悩みを見せず高橋さんは「強い人だった。でも、強すぎたがために、もろかったんかもしれませんね。フルートの演奏が聴けなくなるのがとても寂しい」と肩を落とした。高橋さんは前日の午後10時ごろ、井上さんと電話で15分間ほど話した。「『体調が悪い』と言っていたけど、僕は奥さんのことだとばかり思っていました」。さらに「大ちゃんは、定期的にメンバーのことを心配して、僕に近況を尋ねる電話をよくかけてくれた。まさか大ちゃんの体調が悪いなんて、思いもしなかったんです。でも、今思えば……」と続けた。キーボードの小田啓義さん(59)は「奥さんの看病を献身的にやっていた。プライドの高い人だったんで、周囲には悩みを見せなかったんでしょう」と話した。 また当時のマネジャーで現在は芸能事務所社長の川村竜生さん(59)は「メンバーにいつも気を使う、とても優しい人だった。先日電話で仕事の話をしたばかりだったのに」と残念がった。川村さんによると、井上さんがほとんどの曲の作曲を担当していたため、印税の取り分が多くなるところを「メンバーに公平に分けてほしい」と自ら希望したという。深夜には元タイガースの加橋かつみ(52)も弔問に訪れた。
▼私も励まされた井上さんが作曲した「2億4千万の瞳」を歌った歌手郷ひろみ(44) 井上さんに作ってもらった「2億4千万の瞳」が自分の代表作となっております。心が落ち込んだとき、悲しいとき、この歌によって私もファンも多くの人が励まされました。心よりごめい福をお祈り申し上げます。
▼ラッツ再結成最後ラッツ&スターの鈴木雅之(43) 突然のことで、大変驚いています。シャネルズのデビューから数々の作品を手掛けていただいて、当時私たちにとって、なくてはならない大恩人でした。井上さんに出会わなければ、プロとしての今のスタンスは確立できなかったかもしれません。96年、ラッツ&スターの再結集の時にお会いしたのが最後でした。私たちにとっての人生の師であるとともに、サウンドクリエーター、メロディーメーカーの井上さんを失ったということは、残念でなりません。今はただ、ごめい福をお祈りいたします。
▼兄貴のような心ラッツ&スターの田代まさし(43) 突然の悲報にビックリしていますし、とても信じられないという気持ちでいっぱいです。あの悪ガキだったオレたちを、まるで兄貴のような心で導いてくれた井上さんが……。「芸能界は自分を大きく見せる鏡だ。でも本当の大きさをいつも見失ってはいけない」と教えてくれたことを、つい昨日のことのように思い出しました。またラッツ&スターが再集結したときにお会いできることを、楽しみにしていたのに……。
▼何が何だか元スパイダースのメンバーで田辺エージェンシー会長の田辺昭知氏(61) パーティーなどでお会いする機会はありましたが、じっくりお話をするという意味ではもう30年ぐらい会っていないことになるのかな。一報を聞いたときは大きなショックを受けました。びっくりして、何が何だか分からないです。
▼頑張りたかったGS時代をともに活動した寺内タケシ(61) 日本ポップス界に数々の業績を残した人だけに、第一報を聞いて大変驚いていると同時に残念です。これからもお互いもっともっと頑張りたかった。心よりごめい福をお祈り致します。
アグネス衝撃 育ての親が…歌手アグネス・チャン(44)も大きな衝撃を受けた。井上さんは歌手としての「育ての親」的な存在だった。井上さんが作曲した「美しい朝が来ます」「恋のシーソー・ゲーム」はいずれも大ヒットした。「ダンディーでハンサムで、すごく格好よくて……。井上さんが部屋に入って来られただけで花が咲いたような、そんな方でした」と話した。
ブルーコメッツ元メンバー三原綱木「連絡待ってたのに」ブルー・コメッツのメンバー三原綱木(54)はこの日、公演先の沖縄で井上さんの訃報(ふほう)を聞いた。三原はヒット曲「ブルー・シャトウ」で井上さんとともにボーカルを担当した。「昼すぎに沖縄で聞いて……。何でこうなってしまったのか……」と言葉を失った。亡くなる前日の29日午後10時半ごろ、メンバーだった小田啓義さん(59)から三原の元に「ブルー・コメッツ同窓会」の誘いの電話があった。小田さんは「6月26日にやりたいけど大丈夫? 大ちゃん(井上さん)にも電話してみる」と話していたという。 その直後、メンバーだった高橋健二さん(58)からも電話が入り「大ちゃんから『綱木の携帯を教えてほしい』って電話があったんだ。綱木に大ちゃんから連絡行かなかった?」と聞かれた。三原は井上さんからの電話を待っていたが、ついに電話はかかってこなかった。「電話を生かして(電波の届くところで)待っていたんですけど……。もしかしたら、何か僕に言いたかったんじゃないかな。昨日の電話のことがあっただけに、何か僕に言いたかったんだと思う。今となっては、何で電話してきてくれなかったのかなあと……」。 ブルー・コメッツは、解散後もテレビの企画などで何度か再結成したことがあった。「もう1度、5人でブルー・シャトウを歌いたかった……」と沈痛な表情で話していた。
独自のメロディー 哀愁ある大人の曲湯川れい子さん(音楽評論家) 井上さんが、私の北海道の別荘に家族全員と愛犬を連れて、遊びに来たことがありました。奥さんが飛行機嫌いということで、電車で来たんですが、青函連絡船がとても揺れたので、奥さんをずっと励まし支えていたそうです。「ずっと支えていたから、肩がこっちゃったよ」と、穏やかな笑顔で話していたことが忘れられません。愛妻家で、だれに対しても優しい人でした。いつも穏やかで、怒った表情を見せたことは、1度もありませんでした。よくコンビを組んで仕事をしましたが、もめたことはありませんでした。「ランナウェイ」を作った時も、最初と最後にランナウェイという言葉を入れて、その間にセピア色のワードを入れてほしいという注文でした。最初はCM用の曲ということもあってメロディーが既に出来上がっていた。井上さんのメロディーは情景をもっているんです。だから、自然と流れるように、言葉が浮かんできました。とても、仕事のしやすい方でした。 井上さんたちは、私のちょっと下の世代なんですが、ブルー・コメッツは同世代のタイガースやスパイダースと比べると、歌謡曲に近く、その時代、私はあまり好きではありませんでした。でも、井上さんがその後作ったシャネルズの曲などを聴くと、アメリカンポップスやブリティッシュポップスが底流に流れているんですね。モダンなドゥアップで、日本人受けするからりと明るいポップスだったんです。そう思い直すと「ブルー・シャトウ」も哀愁ある大人の曲でした。歌謡曲ではない、井上さん独自のメロディーでした。日本のポップスの基本をつくったのが井上さんだったと言ってもいいでしょう。 井上さんが亡くなったなんて信じられません。どこか体の具合が悪かったのではないでしょうか。ごめい福をお祈りします。(談)
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