内臓摘出すい臓がんが最初で最後の病気だった。それまでの青江さんは健康には人一倍気を配り、病気知らずで仕事を休んだことがなかった。「鉄人ブルース歌手」と呼ぶ人もいた。青江さんは昨年1月23日、東京・渋谷公会堂でのコンサートを最後に、病気療養に入った。この時にも体には強い痛みがあったが、気丈にステージを務めたという。病院で診断を受けたところ、すい臓に炎症を起こしているのが見つかり、緊急入院。翌月5日に手術を受けた。関係者によると医師からすい臓がんと告知されたが、スタッフにはすい炎と告げていた。昨年4月末には一時退院し「長年の歌手活動の疲れをとるいい休養になりました」と表情も明るかったが、かなりの内臓を摘出しており、体重も激減していた。 自宅療養を続けながら、検査入院を繰り返していたが、今年5月11日に再入院。病状も安定しており、今月2日の午前中にはバナナやさくらんぼを食べ、お手伝いさんと会話をしていたがその後に急変し、2日午後11時40分に、親族や、友人などに見守られながら、静かに息を引き取った。最期は苦しんだ様子もなく、笑って眠るようだったという。 独身貫く
レコード会社社員は「『前向きに悩まず生きるのよ』と、いつも言われていました。人の健康まで気遣う方だったのに」と唇をかみしめた。遺体は、目黒区内の自宅2階にあるリビングの布団の上に安置された。森進一や浅田美代子(44)らが、弔問に訪れた。
青江さんは高校時代からジャズを歌い、高2の時には銀座のしにせシャンソン喫茶「銀巴里」のステージに立った。卒業後にはクラブ歌手として活躍し、1966年(昭和41年)に「恍惚のブルース」でデビューした。68年には「伊勢佐木町ブルース」「長崎ブルース」が立て続けに大ヒット。鼻にかかったハスキーボイスと、色っぽいため息でブルースの女王とも呼ばれた。 酒豪として知られていたが、だんだんと酒量を減らし、健康には細かく気を使うようになったという。地方公演にも漢方薬や常備薬を持参したことから「青江薬局」とのあだ名が付くほどの健康マニアだった。 私生活では独身主義を貫いた。「高校2年の時に出会って、歌を教え私を歌手にしてくれた人」とインタビューで説明した作曲家・花礼二氏と17年間にわたって同せい生活を送っていたが、81年にピリオドを打った。それ以来「私には歌があります」と、歌手活動にすべてをかけてきた。
青江さんと同期デビューの森進一「早過ぎる」同じ所属レコード会社で同期デビューした森進一(52)は、入院中から青江さんを励まし続け、今年5月に再入院したときは、青江さんの好物のスイカを贈った。会ったのは昨夏が最後だったが、電話では連絡を取り続けた。「お見舞いしたのは、手術後でやせていたときでした。青江さんは『内臓を全部(手術で)取っちゃった』と言ってましたし、がんだったことは知っていたと思います。自分では不安と闘ってダメだと言いながらも『大丈夫だよ』と言ってくれるのを待っているという感じでした」。森には「早く食欲が出て体重も増やして元気になりたい」とも話していたという。デビュー当時は「ため息路線」で2人で日本国中をキャンペーンで回った。ハスキーボイスのそっくりな声で、ラジオ番組では「これはどっちの声か」などの冗談を言い合った。「当時は僕や青江さんのような声では歌手になれない時代でした。彼女の登場によってその後、八代亜紀さんなどがデビューできた。彼女がいたから僕も長年やってこれた」と振り返った。 あまりにも早い同期の死に「自宅にプールを造って健康に気をつけていたのに……。ちょっと早いですよ」と声を詰まらせた。
八代亜紀「同じ声質 励みだった」青江さんに「亜紀、亜紀とかわいがられた」という、後輩の演歌歌手八代亜紀(49)は午後6時前、東京・目黒区の自宅玄関前で取材に応じた。「ほんのさっき、テレビで知ってびっくりしました。何と言っていいか言葉が浮かびません」と声を落とした。 八代が青江さんと最後に会ったのは、3年ほど前のNHKテレビ「ふたりのビッグショー」だった。八代は「その時はお元気だと思っていたし、お体の変調などは全然気づきませんでした」。ハスキーボイスの歌手はクラブ専門でレコード歌手になれなかった時代に青江さんが先陣を切ってレコードを出した。「それが同じハスキー系の私の大きな励みになりました。曲がったことが嫌いで『芸能人でも礼儀はきちんと』など教えていただきました。私が唯一まねできたのが青江さんで、ものまね番組では『伊勢佐木町ブルース』などで優勝させていただきました。仕事以外でもよくゴルフのお誘いを受けたのですが、やれずじまいになってしまいました」。
「もう一度ステージを」美川憲一は手紙青江さんとデビューが同時期だった歌手美川憲一(54)は、都内のスタジオで思い出を語った。「がんであることは、周りの人に聞いていました。歌一筋に頑張ってきた人でした」と時折ハンカチで顔を覆った。昨年末、「2人でもう1度ステージに立ちたい」と手紙を送り、青江さんから「手紙を読んでうれしかった。ありがとう」と電話があったという。昭和40年代は2人一緒に地方公演を行うことも多かった。美川は「彼女は自分のことを『オレ』と呼んでいて、『ワタシ』という私とはいいコンビだったの」と寂しそうに話した。
「演歌変えた」元マネジャー平氏安室奈美恵らが所属する大手芸能プロダクション「ライジングプロ」の平哲夫社長は20代のころに青江三奈さんのマネジャーを2年ほど務めた。「青江さんはどんなに忙しくても仕事には絶対に不満を言わなかった。当時は一番忙しいときで、月に20日地方で公演し、1日に3回ステージなんて日もありました。嫌な顔ひとつしなかった」と振り返る。担当を外れてからも旅行に行ったりマージャンをする関係が続いた。最後に会ったのは昨年1月、東京・渋谷公会堂で行われた青江さんの最後の公演。「青江さんはそれまでの演歌の流れを変えた。演歌ブルースという新しいジャンルを開拓した人だった」と話した。
「気さくな大先輩」長山洋子思い語る歌手長山洋子(32)も所属レコード会社の大先輩にあたる青江さんへの思いを語った。「気さくで本当にいい方でした。励ましの言葉もよく頂きました」という。98年10月8日に放送されたテレビ東京「洋子の演歌一直線」で共演し、「伊勢佐木町ブルース」を2人で歌ったのが青江さんに会った最後だったという。この日は4回目の座長公演「七夕公演」(4日初日)を行う東京・新宿コマ劇場で会見。NHK「コメディーお江戸でござる」の舞台版など、盛りだくさんの内容で津軽三味線も披露する。あらためて芸への精進を誓っていた。
▼幸せな一生だった脚本家ジェームス三木氏(65)の話 1960年代後半、歌手をやっていた時代に青江さんと知り合いました。クラブでクリスマスソングをデュエットしたこともあります。当時からサバサバしていて、トークも身のこなしも抜群でした。たくさんのヒット曲を出して歌手として名を残し幸せな一生だったと思います。
▼「銀巴里」で一緒作家戸川昌子さん(67)の話 青江さんとはシャンソン喫茶の「銀巴里」で、一緒に歌っていました。お互いに新人歌手で。彼女の芸名はたしか鈴原志真で、高校生だったかな。とても口数の少ない女の子で、おもしろい声だったことを覚えています。ある日突然、銀巴里に来なくなったと思ったら、突然のデビュー。私たち売れない歌手仲間は、うらやましかったことを覚えています。銀座クラブ「順子」の田村順子さん(58)の話 ずっと近所付き合いをしていました。主治医の先生も同じなんです。サバサバして明るい人でした。テレビで悲報を聞いて急いで来ました。今日は「ご苦労さま」と声を掛けました。思い出すことがたくさんあり過ぎます……。
伊勢佐木町に歌碑 青江さん大ヒット曲の功績たたえ設立へ「伊勢佐木町ブルース」の大ヒットによって全国にその名が知られた横浜市内の伊勢佐木町商店街も、青江さんのふ報に、悲しみにつつまれた。伊勢佐木町1、2丁目地区商店街振興組合の加藤昇一理事長は「青江さんは伊勢佐木の街をこよなく愛された、私どもにとっても忘れがたい方です。今後もこの歌を街の財産としながら、街の振興を図ってまいります」とコメントした。同振興会では、青江さんの記念碑や資料館を設立する企画案が持ち上がっているという。
感じるものあった歌詞に涙代表曲作った川内康範さん 「伊勢佐木町ブルース」「恍惚のブルース」などを作詞した作家川内康範氏(80)が青江三奈さんの思い出を語った。銀座のクラブで歌っていた青江さんを発掘し、芸名の名付け親となった。4年前の暮れに久しぶりに三奈のために曲を書きました。強いきずなで結ばれた男女の悲しい恋を歌った「恋命」という歌です。都内にあるビクターのレコーディングスタジオで譜面とデモテープを三奈に手渡すと、デビュー当時から変わらないやさしい笑顔で「ありがとうございます」と礼を言い、さっそくテープを聴き始めました。「つまずき、やっとのことに つかんだ、ほんとの恋だから……」。ふと三奈を見ると、譜面を見ている目から涙があふれていたんです。驚きました。デビュー以来、泣いているところを見せたのはそれが2度目でした。1度目はデビュー直後です。NHK紅白歌合戦の出場も決まったのですが、同せいしていることがマスコミに書かれそうになったのを僕が必死に止めたんです。後でそれを知った三奈が「ご心配をおかけしました」と涙を流しながら言ってきたときでした。 2度目の涙は理由は今でも分かりません。ただ、恋愛にも一途(いちず)な子でしたから、もしかしたらそのときも「ほんとの恋」を探し続けていたのでしょうか。涙をふきながら「また私にいい歌を書いてくださいね」と言う三奈に「そのうち時代が変わっていずれまたおまえたちの時代がまた来るよ」としか声をかけてあげられませんでした。今でもあのときの涙は忘れられないですね。 スターになっちゃうと態度が変わる人もよくいますが、三奈はずっと変わらない子でした。ベタベタしたところはないけど、僕の体のことをよく心配してくれて、思いやりのあるやさしい子でした。銀座の並木通りにあったクラブで歌っていたところを僕が見つけてデビューさせたんです。「青江三奈」という名前は、当時、僕が週刊現代に連載していた小説「恍惚」に登場する歌手の名前なんですよ。安保闘争で右も左もみんな燃えている時代でした。独特なハスキーな声を初めて聴いたとき、これはいけると思いました。懐かしいですね。 病気という報告は受けてましたが、がんだったなんて。見舞いに行こうとしたら「もう少しよくなったら」と断られました。姿を見せたくなかったんでしょうね。まだ若いのに、かわいそうに。「恋命」には「一人で生きても、命はいのち 二人で生きても、命はいのち」という詞もあるんです。あのとき、もしかしたら何か自分について感じることでもあったのかな。川内康範
◆川内康範(かわうち・こうはん) 1920年(大正9年)2月26日、北海道函館市生まれ。41年東宝舞台課に入社。退社後に脚本執筆を始めた。ヒットドラマ「月光仮面」などを世に送り出し、作詞家としても活動。代表曲は「誰よりも君を愛す」「君こそわが命」「恍惚のブルース」「伊勢佐木町ブルース」など。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||