ジャーナリストで元読売新聞大阪本社社会部長の黒田清(くろだ・きよし)氏が23日午前2時25分、すい臓がんのため大阪府摂津市の病院で死去した。69歳。黒田氏が率いた社会部は「黒田軍団」と異名を取り、大阪府警警官汚職事件など数多くのスクープを報じた。退社後はミニコミ紙を発行するなど草の根ジャーナリストとして活動、テレビのコメンテーターなども務めた。阪神とオリックスのファンで、スポーツと酒が好きな庶民派だった。 肝臓に転移黒田さんは、フサヱ夫人(68)長女重子さん(40)、医師の二男雅人さん(36)、親交の深かったジャーナリストの大谷昭宏氏(55)らに見守られて、眠るように息を引き取った。22日夜に容体が急変し、救急車で摂津市内の病院へ運ばれた。その車中、重子さんが「自宅に戻ったら、何が飲みたい」と聞くと「福倖(ふっこう)酒」と答えた。阪神・淡路大震災からの復興を祈って造られた神戸・長田の酒だ。阪神大震災の直後、現場で精力的に取材した黒田さんにとって忘れられない酒だった。 3年前にすい臓がんの摘出手術を受けたが、今年1月、肝臓への転移が分かった。7月2日に退院し、最後は自宅で療養していた。自らの死期を悟った黒田氏は「やりたいことはまだあるが、これまでやってきたことを考えると、ある程度やれたんじゃないかな、という満足感はある」と友人に語ったという。大阪・太融寺(たいゆうじ)での葬儀は黒田氏の「遺言」だった。読売新聞大阪本社の記者時代、嫌なことがあると1人で太融寺を訪れて鐘をついていた。 一貫して反戦、反権力を訴え、読売新聞大阪社会部長時代には「黒田軍団」の異名を取った大阪社会部を率いて大阪府警警官汚職事件などをスクープした。1987年(昭和62年)に退社後に事務所「黒田ジャーナル」を創設、草の根ジャーナリストとしてミニコミ紙「窓友新聞」を発行した。絶筆となった7月号のコラムでは、出血と輸血を繰り返す病状について「たくさんの血をありがとう」と書いた。 TVで活躍阪神、オリックスのファンとしても知られた。テレビ朝日「やじうまワイド」などテレビ、雑誌で幅広く活動し、庶民派ジャーナリストとして親しまれた。大阪日刊スポーツで88年4月から「ぶっちゃけジャーナル」を、90年4月から「ニュースらいだー」を連載し、今年5月まで計4273回を執筆した。
生まれ変わっても記者親交あった大谷昭宏氏が悼む 黒田さんとは記者とデスクとして出会ってから30年の付き合いになりますが、物の見方や目のつけどころをたたき込まれました。大所高所から物事を見るのではなく、地をはいずり回りながら取材するのがジャーナリスト、そしてもぐらたたきではありませんが、たたかれたらまたどこかで飛び出せばいいと。根っからの社会部記者で、そこから数々のスクープが生まれてきたのではないでしょうか。先輩デスクに教わった話だそうですが、自転車の部品を減らして軽量化するとしたら、タイヤやブレーキではなく、ベルが真っ先になくされる対象になるはず。ベルは従業員何人で、どんなふうに作っているのかを知るのが大事だ。合理化される場合、世の中、そういうところから切られていくのだから、タイヤではなく、ベルのようなものに目をつけていかなければだめだ、と。こんな話を後輩記者に伝えることが、黒田さんなりの記者の育て方だったと思います。 読売を辞めようかと言っていた1987年(昭和62年)の年賀状に「どういうこっちゃから、こういうこっちゃへ」と書かれてあったのが、今も印象に残っています。どういうこっちゃと疑問を持ったら、こういうこっちゃと、私たちで答えを出していこうという意味だったと思います。 5月の連休明け、1時間半くらい話をしましたが、その時も最初から最後まで仕事の話題でした。私が「黒田さんは何度生まれ変わっても新聞記者でしょうね」と言うと、うれしそうにしていたのが忘れられません。(談)
TBS「ニュース23」筑紫哲也キャスター 最後にお会いしたのは今年4月。病室で「今回は長期戦を覚悟しなくては」と話され、体調もよさそうに拝見したのですが……。私の番組に何度も出演していただき、阪神大震災直後の神戸からリポートしていただいたことが印象に残っています。あの腰を落とした庶民の視線で取材される姿勢は、ジャーナリストが本来持ち続けるべきもので、メディアの原型というべきもの。「かわら版精神」の見本のような方でした。
辻元清美衆院議員 黒田さんは大阪の良心というべき方だった。学生時代、当時はピースボートの活動がまだ認められていなかったが、黒田さんは熱心に話を聞いてくれてすぐに協力を申し出てくださった。私にとっては恩人。人権や平和、環境に鋭く切り込んでいく大阪文化の発信者でもあった。それだけに、亡くなったのは非常に残念です。
元「サンデー毎日」編集長の牧太郎氏 黒田氏は一貫して“庶民の美学”を追求したジャーナリストだったと思う。この点では“権力の美学”を追い求めた渡辺恒雄氏(読売新聞社長)とぶつかるのは当然だった。核の問題にしても、差別の問題にしても、常に弱者の立場にたっていた。東京に出てきたときは、新宿にある警察担当記者が集まる飲み屋によく顔を出しており、年齢を重ねても、サツ回りの心を忘れないようにしていたのだろう。これからまだまだ活躍できたのに残念だ。
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