訃報 安らかなご永眠をお祈りいたします

ミヤコ蝶々さん

ミヤコ蝶々さん 慢性腎(じん)不全のため死去

 絶妙な話術で庶民の泣き笑いを演じ、上方芸能界を代表するスターだったミヤコ蝶々(ちょうちょう)さん(本名日向鈴子=ひゅうが・すずこ)が12日午後1時7分、慢性腎(じん)不全のため、入院先の大阪市の病院で死去した。80歳。7歳から舞台に立ち、戦後の民放ラジオ娯楽番組で上方の笑いを全国に広め、夫の故南都雄二さんと出演したラジオ、テレビ「夫婦善哉(めおとぜんざい)」も大ヒットした。女優としても舞台、映画、ドラマで存在感を発揮した。腎臓病が持病で、長年にわたり闘病を続けていた。  不屈の精神力で持病の腎臓病と闘ってきた蝶々さんが力尽きた。異父弟の岩佐輝国さん(55)や30年以上も身の回りの世話を続けてきた生越(おごし)美津枝さん(55)らに見守られ息を引き取った。

 昨年10月、ホームグラウンドとして愛着のあった大阪・道頓堀の中座が閉館。「できることなら私が買いたい」とまで語っていた心の支えを失い、今年に入ってからは目立った活動からは遠ざかっていた。しかし、3月にテレビ出演した際「舞台をやめようという気にはなりまへんな」と衰えることのない舞台への情熱を明かしていた。

 4月29日に大阪市内の病院に入院。腎臓の機能が低下し、微熱が続いて体力が衰えた。舞台復帰を目指して8月半ばからは自分の意思で流動食をとるまでに回復、退院も近いとみられていた。12日朝に容体が急変、ほぼ同時に意識がなくなり、最期は苦しむ様子はなかったという。

 生まれつき腎臓が弱く、幼年期から2つのうちの片方は全く機能していなかった。後年の舞台はまさに気力の連続だった。長年続けた血液透析は管を刺し込める血管がないほどになり、腹膜透析に切り替えた。幕が下りると楽屋で倒れ込むように横になり、歩くのは車いすに頼った。

 その一方で、舞台にはすさまじい執念を見せた。昨年10月15日には、中座のさよなら公演「じゅんさいはん」にゲスト出演した。客席には壮絶な闘病生活を知って涙を浮かべるファンもいた。「中座のお客さんは私の親せき。中座がなくなっても私が芝居する劇場には来てや」と手を振ってあいさつしたのが、ファンへの別れになった。

 人一倍の寂しがり屋で「だれも参ってくれる人がおらんから、私の骨は墓に埋めへん。散骨や」「家に帰っても話し相手は犬だけ」が口癖だった。

 漫才、演劇、ラジオ、テレビの世界で70年以上にわたり一線で活躍した上方の巨星が逝った。
(写真=78年「おもろい女」で船場のイトはんにふんした)

◆葬儀日程
 ▼通夜 15日午後6時から、大阪府吹田市桃山台5の9、公益社千里会館で
 ▼葬儀・告別式 16日午後0時半から同所で
 ▼喪主 義弟日向利一(ひゅうが・としかず)さん
 ▼葬儀委員長 勝忠男・松竹芸能社長
 ▼自宅 大阪府箕面市桜ケ丘1の10の43
◆ミヤコ蝶々(ちょうちょう)
 本名日向鈴子。1920年(大正9年)7月6日生まれ、東京都出身。両親の離婚により父に連れられ大阪で育つ。27年(昭和2年)父が芝居一座を旗揚げ、娘座長として7歳で漫才師に。44年に三遊亭柳枝と結婚するが翌年離婚。47年、南都雄二と再婚し漫才コンビを結成、ラジオ、テレビで人気を博す。主な番組に「漫才学校」「夫婦善哉」など。南都とは58年離婚。子供はいない。84年紫綬褒章、93年(平成5年)勲4等宝冠章受章。


共感呼んだ司会、夫失い女座長に打ち込む

 ミヤコ蝶々さんは東京・日本橋生まれで、7歳から都家蝶々と名乗り、旅から旅の芝居を始めた。義務教育を受けなかった戦前育ちの、天分を独力で開花させた女芸人だった。

 戦後の蝶々さんを有名にしたのは1948年(昭和23年)、28歳で弟子の南都雄二さんと漫才コンビを組んでから。夫婦漫才の面白さ、姉さん女房の振る舞いが茶の間に届き、共感と親しみを呼んだ。2人で司会した「夫婦善哉」はゲストの内証話を巧みに引き出し、視聴者参加のトーク番組のはしりとなった。雄二さんの浮気で58年に離婚した後も「雄さん」「蝶々はん」と呼び合い、73年に雄二さんが亡くなるまで仲良く付き合った。

 娘時代の恋の逃避行、2度の結婚と離婚。華やかな舞台の裏で泣き続けた人生でもあった。頼まれると色紙に「どんな悲しい涙でも、いつかはかわくときが来る」と書いた。そして「私の中には非情でわがままなミヤコ蝶々、泣き虫で恋にも弱い日向鈴子(本名)の2人の女が棲(す)んでいます」と胸の内を明かしたことも。

 雄二さんを失った蝶々さんは舞台に打ち込んだ。「芸人から芸を取ったら何が残りますねん。わてはわての本でやりたい芝居をやります」と自作自演、女座長で頑張った。30本を超す作品は男女間の機微、家族、老人問題まで幅広く、若々しい好奇心を芝居に反映させた。また、カーテンコール後の辻(つじ)説法に似た独り語りでしみじみと体験談を語り、観客を諭して励ました。


2年前形見の指輪

 京唄子(73)は「形見」の指輪をして会見した。2年前1月の中座(大阪市中央区)の舞台「あんたもわたしも失楽園」で蝶々さんの楽屋を訪れた際、「わしの後は、あんたしかおらんのや。わしに何かあったら頼むで」の言葉とともに、蝶々は自分の指にはめていた指輪を外し、唄子に手渡した。唄子は「めっそうもございません、とお答えしたのですが。しかしみなさんにこれをお見せする日がこんなに早く来るとは、思いもしませんでした」と目を潤ませた。


“姉”に「お疲れ様」

 漫才コンビ、いとしこいしも蝶々さんの死を悼んだ。2人は蝶々さんと50年以上の付き合いがあり「姉」と呼んで慕っていた。1954年(昭和29年)に始まったラジオ「漫才学校」では蝶々さんが校長を務め、2人は生徒役だった。10年ほど前から、蝶々さんは2人と会うと「死ぬなよ」と言っていたという。いとしは「そう言っていた人が亡くなって……。お疲れさまでした。いろんなことに気を使わず休んでください」と偉大な先輩に声を掛けた。


独特蝶々節生かす

 俳優森繁久弥(87) 名人が亡くなるとは悲しいです。あの人は独特のチョウチョウ節があり、また、それを生かすために、十分の勉強をしておられたことに頭が下がります。惜しい人はみんな、あの世へ逝ってしまいます。


芸に自分に厳しく

 女優森光子(80) 初めてご一緒にお仕事をしたのは1954年(昭和29年)、ラジオの「漫才学校」(大阪朝日放送)でした。芸に厳しい人で、他人に厳しく、自分自身にはもっと厳しい人でした。私の東京行きが決まった時、「行かんほうがいい。東京行ったら一から出直しやで」と親身になって考えてくれるやさしさを感じました。東京のいいところは認めながら「それでも大阪は上やで」といったエネルギーが、大阪の庶民を引き込んだのだと思います。


寅さんと再会を…

 女優倍賞千恵子(59) 映画「男はつらいよ」では、お兄ちゃん(寅次郎=渥美清さん)のお母さん役でした。とても寂しく、残念でなりません。向こうで、お兄ちゃんと話をされていることでしょう。心よりごめい福をお祈りいたします。


生みの親「好きや」

 山田洋次監督(69) ミヤコ蝶々さんは、寅さんの生みの親で京都のラブホテルのあくどい経営者という役を、とても気に入ってくれていました。「私は、汚く演じながら人間の悲しい姿を現すという、こんな役が好きや」と言ってくれたことを思い出します。男にとって都合の良い女を演じるのは嫌だった、そういう意味では誇り高いフェミニストでした。寅さんシリーズのメンバーが、また1人この世を去りました。寂しい限りです。


またケンカしたい

 俳優芦屋雁之助(69) 体が、すぐれないというのは、聞いていたんですが……。ただ、残念で仕方ないなあ。蝶々さんとは、50年近いつきあいやった。共演した芝居が楽しかった。お互い、漫才出身なので「役者にはない『間』がある」ていうて、ほめてくれました。また、けんかしたいなあー。


「大阪のお母さん」

 俳優藤田まこと(67) 無名のころから息子のようにかわいがってくれ、母親のような方だった。テレビ番組にも必ず呼んでくれ、舞台を含め、何度となく共演させてもらった。一人前になったのも、あの方のおかげ。2年前の秋、自宅にお邪魔し「元気になったら、また共演しましょうね」と話したのが最後だった。「大阪のお母さん」を演じられる最後の人で、もう、あんな方は出ないと思う。


関西で独自芸築く

 落語家の桂米朝(74) 関西最後の大物タレントでした。人気絶頂のころに東京進出の誘いがあったのを「私は大阪でやる」と全部断った。それがよかったんですな。もともと東京の生まれの人やのに、大阪で独特の芸を築き上げはった。私と食事をした後「家に上げてくれ」と言ってたのを思い出します。


大きな目標だった

 女優藤山直美(41) 喜劇の大先輩であり、私の大きな目標でもありました。平成5年4月道頓堀中座での「嫁&姑」でご一緒させていただいた時には、本当の娘のようにかわいがっていただき、父の思い出話もたくさん聞かせてくださいました。まだまだ教えていただかなければいけない事がたくさんあったのに。もう1度同じ舞台で勉強させていただきたかったです。


芸人の作法教わる

 喜劇俳優白木みのる(66) 1年ほど住み込みで弟子をしていたことがありますが、芸は教わるもんやない、盗むもんやという方で芸にとても厳しい人でした。芸人としての作法をしっかり勉強しなさい、と言われたものです。何度かお見舞いに行ったが、今年の夏くらいから具合が良くないと聞いていたので、元気になったら行こうと思っていたところだった。


会うといつも小言

 森田健作衆院議員(50) 9月30日に病院に見舞いに行きました。もう話はできなかったけど、僕の顔をじっと見詰めて、ニコッと笑ったんですよ。昔の映画の話をしたら、目にうっすらと涙をためていました。30年ほど前にドラマで共演して以来オフクロと息子みたいな関係でした。会うと、いつも小言を言われた。僕が政界入りするときも「おまえみたいな性格は政治には向かないからやめろ」と言われました。厳しいけど純粋な方でした。


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