(写真=きんさんとぎんさん(左)は、屈託のない笑顔で全国民のアイドルだった)
人一倍の体力ぎんさんの遺体は28日午前10時から、南医療生協南生協病院で家族の了承を得て病理解剖された。ぎんさんの主治医を約9年務めた同生協の室生昇理事長(68)によると、ぎんさんは姉のきんさんとともに、双子で100歳を超える長寿というまれな例であることから、病院側が遺族に、病理解剖への協力を依頼していた。遺体は午後1時50分に解剖を終え、自宅に戻った。 五女の蟹江美根代さん(77)によると、数年前から病院側から亡くなった際の病理解剖への協力を要請されていた。美根代さんは家族と相談し、約3年前に承諾を伝えた。美根代さんは「『頼むで。(ぎんさんの)中を見せてくれ』と頼まれた。今まで先生にはお世話になってきたし、ここまで生きられたことへの感謝の気持ちもあり、先生の医学の勉強で生かすことができるならと、家族と話し合い了承しました」と話した。所見の結果は知らされていないが「傷ができてもすぐに治る細胞の強さが、びっくりするくらい強かったと言われた。組織の一部は取り出して、病院で保管しているそうです」。 美根代さんは、長生きの秘けつについて「昔、農業をやっていたし、基礎体力は人一倍あったと思う。それに、何でも自分でやろうという気力があった」と振り返った。今年の正月、なかなか起き上がることができなくなったぎんさんを、家族が手助けしようとすると、ぎんさんは「自分でできる」と、自力で起き上がったという。「きんさんと一緒に、お互いライバル心を持ちながら頑張ってきたことも、大きかったと思います」。 遺伝子治療へ南生協病院は、愛知医科大の長寿研究部門にも組織を送る。同大でぎんさんを診察した際の記録と実際の内臓の状態を比較。長寿の研究に生かす方針だ。医療ジャーナリスト松井宏夫氏は「長寿の研究を目的にした病理解剖は海外ではポピュラーだが、国内ではほとんど聞いたことがない。恐らく、日本で初めてではないか」と指摘する。日本は、天寿を全うした人の体にメスを入れることに抵抗感が強いことも、長寿研究を目的とした病理解剖例が少ない理由といわれる。松井氏は「ぎんさんのように元気なまま生涯を終えるのは、ある意味で理想な死に方。ここが良かったから長生きすることができたという、いい例でもある。遺伝子の研究など、今後の医療のためにも不可欠なことではないか」と話している。
先月8日に吐血、治療負担かけず
ぎんさんは28日午前1時50分、老衰のため名古屋市南区の自宅で死去した。五女の蟹江美根代さんによると、ぎんさんは2月7日から自宅近くの福祉施設でショートステイ(短期入所)していたが、同8日に吐血した。家族は自宅で介護することを決め、9日に自宅に連れて帰った。
その後、一時は体調が回復したが、寝たきりの状態が続いていた。3日ぐらい前から食欲がなくなり、26日には点滴を受けたが、ぎんさんの体が点滴を受け付けなくなった。家族から「自然な形で往生させてあげたい」との要望があり、酸素吸入や投薬以外、本人に負担になるような検査や治療は行われなかった。 これまで5人の娘が交代でぎんさんの看病をしていたが、27日から世話をしていた四女の佐野百合子さん(79)によると、同日午前0時半ごろになってぎんさんは呼吸が速くなり、脈が弱くなった。口から血のような泡を吹いたため、百合子さんは担当医に連絡し、家族を起こした。 28日午前1時半ごろ容体が急変。ぎんさんは娘や孫、ひ孫7人に見守られ静かに息を引き取った。百合子さんは「最後は苦しまずに眠るように逝ってしまった。穏やかな顔でした」と話した。戒名は「徳峰浄銀大姉(とくほうじょうぎんだいし)」。 (写真=(左)病院での病理解剖を終えて自宅に戻ったぎんさんの遺体 (右)ぎんさんの自宅には、弔問の人たちが次々に訪れた(名古屋市南区で))
「おみゃあ、こんなにつべたなっちまって……」ぎんさん語録▼92年7月26日 「世の中よーやってくれる人を選びました。悪い人が出んように」(参院選の1票を投じた後で)▼同8月1日 「100まで生きさせてもらって、こんなうれしいことはない」(満100歳の誕生日に) ▼93年9月15日 「とにかく気力ですね」(名古屋市内での健康フェスティバルで長寿の秘けつを聞かれて) ▼同12月12日 「あんたに会えたことじゃ」(島根県美保関町で、小学生に「生きていてうれしかったことは」と聞かれて) ▼95年5月14日 「名古屋の言葉が通じればええけどね」(初の海外旅行の台湾行きを前に) ▼98年7月31日 「ずっと(誕生日を)やってきたから、慣れ慣れだわ。年なんか勘定せんでも生きるだけ生きる」(満106歳の誕生日を前に) ▼同12月19日 「あの人(きんさん)はね、ちょっと陰気なほう。私は双子でもちょっと口やかましい」(名古屋市内でのイベントの最中に隣のきんさんが居眠りを始めたのを見て) ▼同12月24日 「今年は少し(体を)痛めたけど、じき治りました。治る早さも人間によります。寿命があれば何歳でも生きます」(肺炎で一時入院したこともあった1年を振り返って) ▼00年1月24日 「おみゃあ、こんなにつべた(冷たく)なっちまって……」(死去したきんさんを弔問に訪れ) ▼01年1月19日 「もう1年になるかな」(きんさんの一周忌法要を前に家族に)
オキャンな姉とは対照的、熟慮タイプのしっかり者きんさんが亡くなって1年。ぎんさんが後を追うように天国に旅立った。91年(平成3年)にCMキャラクターとして茶の間に登場し国民的アイドルとなった双子姉妹は、人生の終盤で思いもよらなかった「タレント」を演じ、日本中の人に愛された。テレビ出演や各地からの招きで全国を飛び回る忙しい92年から94年ごろ、取材でしばしば会った。どこまでも明るく天真らんまん、少女のような心で周囲を笑いに包むきんさんに対し、ぎんさんは熟慮タイプのしっかり者。どんな時でもでしゃばらず、オキャンな姉が笑いを誘ったあと、ぎんさんはきまじめな受け答えをすることが多かった。 長寿の双子は、高齢化社会の不安を振り払う理想の老後像となった。日本全国、台湾など海外からの招きにも快く応じた。あまりの売れっ子ぶりに健康を危ぐする声も聞かれたが、四男の成田幸男さんは「たくさんの方に喜んでいただけるなら、できるかぎり出かけていきます。それが長生きした2人の務めだと思います」と話した。幸男さんが92年に出版したエッセー「しあわせ家族〜うちのおばあちゃんがボケない理由」で、嫁姑(しゅうとめ)問題は「姑の天下と思わせること」、ボケ問題は「とにかく話し掛けること。家族が必要としていると思わせること」とつづられている。 CM出演に際し「金もうけのためにやるのはやじゃ。福祉に生かすのなら」と条件をつけた2人は、得た収入の多くを福祉基金に寄付した。長生きすることの素晴らしさを教えてくれた双子姉妹は、どこまでもさわやかだった。【放送担当・新村明】
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