三波春夫さん死去 「ママ、ありがとう。幸せでした」
「お客様は神様です」の名文句で知られる歌手三波春夫さん(みなみ・はるお、本名北詰文司=きたづめ・ぶんじ)が14日午後4時5分、前立腺(せん)がんのため、都内の病院で死去した。77歳。亡くなる2時間前、妻ゆきさん(76)への「ママ、ありがとう。幸せでした」が最後の言葉だった。1994年(平成6年)にがんの告知を受けたが病気を隠して仕事をこなした。「東京五輪音頭」や大阪万国博覧会のテーマ曲「世界の国からこんにちは」などで国民的歌手として活躍。若い感覚を失わず「温故知新」を生涯持ち続けた。
家族が告知「ママ、ありがとう。幸せでした」。三波さんは14日午後2時ごろ、ベッドから最愛の妻に語りかけた。「一生分、褒めてもらいましたよ。2人でいろんな歌をつくってきたわね」。ゆきさんの言葉に、三波さんはほほ笑んだ。2時間後、ゆきさん、長女の八島美夕紀さん(42)、長男の三波豊和(46)ら家族にみとられ、静かに息を引き取った。穏やかな笑顔だった。遺体は同日夜、築地本願寺に運ばれた。1994年(平成6年)1月、検診でがんが発見された。芸能生活55周年の節目の年だった。家族から告知を受けた三波さんは「そうか、分かった。歌手としてきちんと仕事をしたい」と話し、病気を周囲に隠し仕事を続けた。手術はせず薬物治療を受けたが、昨年12月3日に入院した。三波さんは「これで(お客さんと)さよならだね」と、つぶやいた。「歌は大衆とともにあり」と、常に観客を第1に考えてきた。もう観衆の前に立てないと悟ったのか、初めて悲しそうな表情をみせた。今年2月に詠んだ「逝く空に桜の花があれば佳し」の句を、美夕紀さんは「辞世の句」と受け止めたという。 母親を亡くした寂しさを紛らわせるため、父親に民謡を習ったのが歌との最初の出合いだった。13歳で上京、魚河岸で働く傍ら、浪曲学校に入学した。39年(昭和14年)、16歳で浪曲師としてデビューしたが、44年に出征。戦後の4年間、シベリアで抑留生活を送ったが、その体験が、三波さんの人生を変えた。57年、33歳で三波春夫に芸名を変えたデビューは遅咲きだったが「チャンチキおけさ」「船方さんよ」がヒットし、あっという間にスターの座に上り詰めた。「三波春夫でございます」というセリフ一言で、強烈な存在感を示した。 高音持ち味
浪曲で鍛えたノリのいい歌声が持ち味だった。メリハリの利いた高音、はっきりした歌い回し。幼少時、おじにアイウエオの51文字を唱えるよう指導され、1日50回、3年間続けた。「東京五輪音頭」や「世界の国からこんにちは」の明るい歌声は、高度経済成長と国際社会への復帰と同時進行で、日本人の高揚した気持ちにマッチした。79年には中国を訪問、「友好音頭」を歌うなど、国家的イベントや国際親善に強い歌手ともいわれた。
「お客様は神様です」は「芸術は人びとに奉仕するもの」との思いから生まれた言葉だった。常に観客を楽しませたいという姿勢を忘れず、芝居と歌の2部構成というショー形式を確立したのも三波さんだった。「俵星玄蕃」のようにセリフ入りの長編歌謡浪曲を歌う半面、若い感覚を求め、92年(平成4年)には「面白いね。やりましょう」と「チャンチキおけさ」をクラブ音楽風にアレンジした。生前「私は常に新しいものをつくっていく主義」と語った。「温故知新」の精神で若者からも支持された、日本を代表するエンターテイナーだった。 (写真=1999年(平成11年)12月30日、紅白歌合戦のリハーサルで熱唱する三波春夫さん (下)1995年(平成7年)7月、森光子と笑顔でポーズ)
長男豊和 目真っ赤で会見
長男の豊和はこの日、築地本願寺で深夜まで遺体に付き添った。午後11時すぎ、目を赤くして会見し「およそ7年間病気と闘う父をみてきた。ここ数カ月は父と息子として、いろいろな話をした。十分いい時間を過ごせた。覚悟はできていました」と悲しみを抑えて淡々と振り返った。
一緒の舞台に立った時は、親子というより厳しい“先輩”だった。「意識が混濁する中でも『こんなんじゃ幕が上げられない』なんて言うんですよ。つくづく、日本人の心、文化を愛していた。ある意味、身を削ってやっていたのかなあ。『お客様は神様です』に代表されるように、舞台の精神も最後まで教えてもらった」。 最後の会話は3日前。病室を見舞った帰り、左手を上げた「豊和、じゃあな」だった。豊和は霊前で「お疲れさまでした。おふくろを支えて頑張ります」と誓ったという。 (写真=会見する三波春夫さんの長男、三波豊和) 最後まで「お客さまは神さまです」
三波春夫さん(享年77)は昨年11月、出身地の新潟県三島郡(さんとうぐん)越路町で「最後のコンサート」をしていた。名誉町民だった三波さんは体調の悪化を隠してつえをついて熱唱2時間。ステージでは「故郷で歌えるのはこれが最後かも」と語っていた。越路町では訃報(ふほう)が流れた14日夜、職員が緊急招集され、町を挙げて喪に服した。
立ち見満員三波さんの故郷越路町で昨年11月12日、町政施行45周年記念として、三波春夫ショーが行われた。三波さんは1985年(昭和60年)から名誉町民となっていた。町の体育館には、1200人を超える町民が詰めかけた。立ち見が出るほどの超満員だった。当時、既に三波さんの体は病魔にむしばまれていた。だが、故郷からの招きに三波さんは、つえをついて舞台に登った。 もらい泣き越路町の小森義也総務課長(59)は、その場面をはっきり覚えている。「顔色もすぐれていなかった。足腰も弱くなっておられたけれど、年齢のせいと思っていた。でも約2時間、熱唱されて、最後には感極まって泣き出した。もらい泣きする人もいて。いいコンサートでした」と振り返った。
妻子見守るコンサートの最中、三波さんは「もう、越路町に来ることはできないかもしれない。故郷で歌うのはこれが最後かもしれません」と町民に語りかけた。だれもが冗談と思った。三波さんが心に期した故郷での最後のコンサートだった。幕が下りた後、職員らとの食事会に出席した。三波さんは、この時、控えていたお酒を注文して飲んだという。コンサートには妻のゆきさん、娘の美夕紀さんを同伴していた。大野勉町長(48)は「『きょうは楽しかった』と笑った顔が忘れられません」と話した。 三波さんには今月29日に新潟県が主催するイベントに出席する予定があった。それはかなわなかった。 町民葬検討14日夜、越路町の役場では休日にもかかわらず、幹部職員、町議会議員らが緊急に集められた。午後8時すぎには続々と職員が集まった。大野町長は「町を励まし続けてもらった。町としてもベストを尽くして、お礼を伝えたい」と、町民葬も検討している。(写真=クレヨンしんちゃんと「共演」した三波春夫さん) 新潟県発展に提言■三波春夫さんの出身地の新潟県の平山征夫知事 亡くなったという知らせを聞き非常に驚いている。常にふるさとを愛し、県民に大きな勇気と励ましを、新潟県発展のためにさまざまな提言をいただいた。今月29日に新潟スタジアムで開かれるイベントに出演予定だったが、残念でならない。県民とともに心よりごめい福を祈ります。やり遂げた満足感■新潟県越路町出身でスポーツ用品メーカー「ヨネックス」の米山稔会長 三波さんは1級上だが同級生のような存在。幼いころ、田植えの時、あぜ道で「佐渡おけさ」を歌って田植えを応援していたのを覚えている。「チャンチキおけさ」が売れたころ、私もバドミントンラケットを作り始め、ライバルのようで互いに励まし合った。昨年、越路町での公演の際、歌い終わった後、涙を流し満足そうな顔だったのを思い出す。父の事業失敗で町を出て以来、ばん回しようと頑張っていたはず。やり遂げたという満足感だったのではないだろうか。
ライバル村田英雄絶句「ご苦労さんでした」三波さんのライバルといわれた歌手村田英雄(72)は14日午後8時すぎ、大阪府内の自宅に駆けつけた後援会関係者から訃報(ふほう)を聞いた。村田は「ホンマか!?」と信じられない、といった表情を浮かべた。「春日(八郎)さん、三橋(美智也)さんに続いて、三波先輩まで……生き残ってるのはおれだけやな」。寂しそうに話した。「戦後、歌謡界に大きな功績を残した方。今はただ『ご苦労さんでした』と言いたい」と言葉を続けた。30代のころに舞台共演した際、台本の「三波は上手(かみて)から村田は下手(しもて)から」を見て、村田が「なんで向こうが上手(じょうず)でおれがヘタなんだ」と激怒したともうわさされて“犬猿の仲”と言われていた。村田は「世間がつくったイメージ。同じ浪曲から出て、三波先輩の方が年上だったし、目標でもあった」と話した。プライベートでも、一緒にゴルフや食事をする仲だった。 1996年(平成8年)、糖尿病から村田が右足の切断手術を受けた際、気遣った三波さんが電話をかけてきた。「内容? 頑張れ、また一緒に仕事をしようと言うてくれた」。40余年、互いに刺激し合った盟友に、村田は「本当に長い間、ご苦労さん」と話した。 名言語り継がれる■歌手北島三郎(64) 突然の訃報(ふほう)に、人の命のはかなさを感じています。「お客様は神様です」の名言は、三波先輩が亡くなられても、語り継がれていくことと思います。
背中を追いかけた■水前寺清子(55) 浪曲界から歌謡界に転向して、歌謡界の一時代を築いてこられ、私も必死になって大スターである三波先輩の背中を追いかけ、頑張ってまいりました。心からごめい福をお祈りします。
両親も好きだった■歌手川中美幸(45) 父は「チャンチキおけさ」が好きで、子どものころ両親がやっていたお店の中で、レコードをよく流していました。昨年8月、NHK歌謡コンサートでご一緒させていただいたとき、「俵星玄蕃」を歌わせていただきますと話をすると、「今度聴きに行くからね」と言ってくださいましたが、それもかなわぬこととなってしまいました。
歌で元気を示した■西川きよし参院議員 僕らにとっては、日本の高度成長期の象徴のような方でした。戦争というつらい時代を経て「日本は元気だぞ」ということを、あの歌で示してくださいました。芸能人という立場からすれば、お1人で客席を満杯にできる方が、また1人いなくなられたと寂しい限りです。
「新聞読みなさい」■歌手冠二郎(51) 僕のデビュー翌年、1968年に初めてお目に掛かった時に「あなた、新聞を読んでますか?」と尋ねられたことを思い出しました。僕が返答に困ると、笑顔で「朝日新聞を読みなさい」とおっしゃられました。視野を広く持て、ということを教えてくださったんだと思います。
NHKは会見速報NHKでは、午後9時40分すぎから築地本願寺で行われた美夕紀さんの会見の模様を、速報として午後11時のニュースのトップで伝えた。民放各局も午後7時すぎから、死去の一報を速報テロップで流して対応した。ラジオではニッポン放送が急きょ、特別番組の放送を決定した。16日午前4時30分から「トキちゃんの今日もいい朝!歌謡曲!」の内容を変更して、名曲とエピソードでつづる三波春夫特集を放送する。マネジャー長女美夕紀さんは気丈に笑顔
遺体が眠る東京・築地本願寺に集まった約80人の取材陣を前に、11年間マネジャーを務めてきた長女八島美夕紀さんがき然と対応した。「これまで病気のことを隠してきて申し訳なかったので、今日はきちんと報告させてください」と、1人で取材に応じた。病名を告知したのも美夕紀さんだった。闘病生活7年間で「病気のことも含めていろいろなことを話し尽くせ、幸せでした」。気丈に笑顔さえ見せた。終始、三波さんのことを「父」ではなく「三波」と呼ぶなどマネジャーとしての仕事を全うしようと振る舞った。そんな美夕紀さんも「昨年8月に結婚を報告できたことが最後の親孝行になりました」と話した時、わずかに目を潤ませていた。(写真)
親しみわく笑顔と歌で勇気づけ「お客様は神様です」の名ゼリフを残して、国民的歌手三波春夫さんが永遠にステージから姿を消した。浪曲出身の歌手として、歌謡界に新境地を築いた。澄んだ声、抜けるような高音、聞き心地のいいコブシ。個性的歌手だった。和服姿の男性歌手のはしりでもあった。 NHK「紅白」の常連だった時期が長く、リハーサルや本番での取材に対する態度は、親しみを抱かせるものだった。スター歌手ながら積極的に取材陣に近づき「よろしく報道をお願いします」と笑顔であいさつする。こちらの質問に身ぶり手ぶりで答えてくれた。そんな親しみやすさで、戦後の日本を歌ってきた。 「チャンチキおけさ」を歌ったのは、神武景気を経た1957年(昭和32年)。明るい中にも郷愁を漂わせる同曲には、故郷への思いと都会暮らしの挫折感が微妙に入り交じった。♪知らぬ同士が小皿叩(たた)いて の歌詞に、涙した人も多い。経済成長が本格化した60年代、日本が本格的に世界に飛躍する時期に東京五輪が開催された。♪オリンピックの顔と顔……というフレーズは、復興を遂げた祝いの歌でもあった。そして70年、大阪万博で♪こんにちは こんにちは 世界の人が(「世界の国からこんにちは」)と歌い、先進国の仲間入りを自信を持って歌い上げた。国民を鼓舞する歌が多く、恋や不倫のテーマはそぐわなかった。 ステージの華やかさ、過激なほどの歌い回しとは打って変わり、マイホームパパだった。三波豊和が結婚した時も、感激して涙したのは有名エピソード。てんぐにならず、最後まで「歌を通してファン、お客様を勇気づけたい」と歌い続けた。まさに「国民的歌手」だった。ごめい福をお祈りします。【編集委員・小林秀夫】
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