訃報 安らかなご永眠をお祈りいたします

池田の攻めダルマ 蔦監督死去

蔦文也さん  徳島県立池田高校野球部の監督として春2度、夏1度の甲子園制覇を遂げ「攻めダルマ」と呼ばれた蔦文也さん(つた・ふみや)が28日、肺がんのため徳島・池田町の病院で死去した。77歳だった。監督就任20年目の1971年(昭和46年)夏に甲子園初出場。「さわやかイレブン」旋風を巻き起こし、金属バット採用後は「山びこ打線」の異名を取るパワー野球で高校球界に革命を起こした。92年3月、40年間の監督生活引退を決意し野球部顧問を務めていたが、ここ数年は体調を崩して入退院を繰り返していた。葬儀・告別式は30日に行われる。

荒木攻略

 愛称「攻めダルマ」。驚異のパワー野球で甲子園を沸かせた蔦さんが、故郷徳島で静かに息を引き取った。より遠くへ打球を飛ばす豪快野球で次々に対戦相手をねじ伏せた。高校野球の定義を根底から覆した名物監督だった。

 「山あいの子らに1度は大海(甲子園)を見せてやりたい」。1952年(昭和27年)、阿讃山脈と四国山脈に囲まれた池田高の野球部監督に就任すると、まず甲子園出場を目標にした。「そんなことじゃ、いつまでたっても徳島商に勝てんぞ」を口ぐせに、1000本ノックで選手たちを鍛えた。

 それから20年かかって、71年夏に甲子園初出場。74年の金属バット採用後は、蔦監督の神髄「攻めまくる野球」を一気に開花させた。

 いつもは早朝6時から打撃練習を開始。練習時間は守備1時間に対し、打撃3時間。「遅い球はいくら打っても意味がないけんのう」と130キロの速球を打てない選手にはバットを持たせなかった。当時300万円をかけた筋力アップ器具を校舎内に設置し、サーキット・トレーニングも重視した。

6戦85本

蔦文也さん  こうして生まれた「やまびこ打線」は初優勝した82年夏、全国にその名をとどろかせた。「サインは打て」。蔦監督はバントのサインをほとんど出さない強気一辺倒。準々決勝では好投手荒木大輔の早実に20安打を浴びせ、14―2で快勝。広島商との決勝では初回に開始10分で6点を先行しながら「1点ずつ返されたら6―9で負けるんじゃ」と攻めまくり12―2で圧勝。6試合で85安打を放ち甲子園を仰天させた。

 絶頂期の蔦監督は講演で「文芸復興期にカルヴァンという人が、運命は努力によって変えられると言っています。ここ一歩で負ける運命を、努力して勝てる運命に変えていこうと思いました」と話したことがある。「努力は無限」とも。引退後は、野球部顧問を務めていたが、一昨年からは体調を崩した。胃、大腸の手術を受けるなど入退院を繰り返した。療養中は他人と会うのも避けるようになっていた。

 この秋から高校野球では安全性を考慮し、打球が飛ばない金属バットが採用される。フルスイング打法で甲子園の名勝負を演出した蔦野球は今後も伝説となって語り継がれていくはずだ。

(写真=1991年、最後の甲子園となった夏の大会前の公式練習で選手にノックする蔦監督 (下)1982年、夏の大会早実戦で畠山(右)ら選手に指示を与える蔦監督)

◆蔦文也(つた・ふみや)
 1923年(大正12年)8月28日、徳島市出身。徳島商で39年(昭和14年)春に一塁手、40年春夏は投手で合計3回甲子園に出場。同志社大卒業後、社会人野球の日鉄広畑(現新日鉄広畑)などで都市対抗に3度出場。50年、プロ野球の東急フライヤーズ(現日本ハム)に投手で入団したが5試合0勝1敗、防御率11・70の成績を残し、わずか1年で退団。51年、池田高校に社会科教諭で赴任し、52年から野球部監督。甲子園には20年目の71年夏に初出場を果たし、監督として春夏7回ずつ計14回出場。74年春には「さわやかイレブン(部員11人)」旋風を巻き起こし準優勝。82年夏は畠山(元横浜)、83年春は水野(現巨人投手コーチ)らを擁し夏春連覇。甲子園通算37勝は中村監督(PL学園)58勝、高嶋監督(智弁和歌山)38勝に次ぐ歴代3位。68歳の92年(平成4年)3月、40年間の監督生活引退を決意。同年7月に池田町名誉町民第1号に選ばれた。
◆葬儀日程
▼葬儀・告別式 30日、徳島県三好郡池田町マチ2463の自宅で。時間は未定。
▼喪主 長男泰見(やすみ)氏


「この山あいの子供たちに1度、
大海を見せてやりたかったんじゃ」

【蔦監督語録】

 ◆「この山あいの子供たちに1度、大海を見せてやりたかったんじゃ」(1971年夏、監督就任20年目で初の甲子園出場)

 ◆「甲子園は1度味をしめると忘れられん。ワシは池田に骨を埋めるつもりじゃ。私学は制約が多いし、他県にもよう出ていかんし……」(82年夏、初の全国制覇)

 ◆「ワシはバントとかコツコツ当てていく野球は嫌いなんじゃ。野球に理屈はいらん。思い切り、のびのび打てばいいんじゃ」(82年9月、池田ナインを指導しながら)

 ◆「ワシがノックバットを離すときは監督を辞める時。ワシャ、死ぬまではなさんぞ」(87年春の甲子園で)

 ◆「昔はハングリー精神が、おう盛だった。しかし豊かな時代にそれを求めるのはどうかと思う。ただ選手を甘やかすのはいかん」(92年3月、勇退会見で今後の高校野球の在り方を問われて)


蔦監督の甲子園全成績(37勝11敗)

回 戦スコア相 手
71
1回戦○5―4浜田
2回戦●1―8県岐阜商
74
1回戦○4―2函館有斗
2回戦○3―1防府商
準々決勝○2―1倉敷工
準決勝○2―0和歌山工
決勝●1―3報徳学園
75
1回戦●2―4報徳学園
79
2回戦○5―0鶴商学園
準々決勝●7―8東洋大姫路
79
2回戦○9―2松商学園
3回戦○5―2中京
準々決勝○5―1高知
準決勝○2―0浪商
決勝●3―4箕島
82
1回戦○5―2静岡
2回戦○4―3日大二
3回戦○5―3都城
準々決勝○14―2早実
準決勝○4―3東洋大姫路
決勝○12―2広島商
83
1回戦○11―0帝京
2回戦○10―1岐阜一
準々決勝○8―0大社
準決勝○2―1明徳
決勝○3―0横浜商
83
1回戦○8―1太田工
2回戦○12―0高鍋
3回戦○7―3広島商
準々決勝○3―1中京
準決勝●0―7PL学園
85
1回戦○3―1秀明
2回戦○9―3駒大岩見沢
準々決勝○1―0東北
準決勝●0―1帝京
86
1回戦○7―3福岡大大濠
2回戦○2―1防府商
準々決勝○5―4尾道商
準決勝○8―2岡山南
決勝○7―1宇都宮南
86
1回戦●2―7明野
87
1回戦○6―1学法石川
2回戦○8―3明石
準々決勝○9―0甲府工
準決勝●4―7関東一
87
1回戦○5―4八戸工大一
2回戦●1―2中京
88
2回戦●2―3浜松商
91年夏は岡田代理監督が指揮

決戦前夜に気合

 ■前横浜・畠山準外野手(36=現横浜球団職員、82年夏の甲子園優勝投手) 「6年前にお見舞いしたときに小さくなっていた。決勝戦の前夜に1人だけ呼ばれて『どうしても優勝したい』と言われたのが印象的。試合が終わってからの顔がそれまでと全然違っていた。喜んでくれたのだろう」。


遠い存在だった

 ■日本生命・梶田茂生投手(32=86年センバツ大会優勝投手) 「今も野球にかかわっているのはあの方のおかげ。個人個人に声をかけない、どちらかというと遠い存在でした。でも優勝した日の夜はキャッチャーと2人で部屋に呼ばれ“よく頑張った”と声をかけられたことを覚えています」。


厳しかったけど面白いところも

 ■水野雄仁・巨人投手コーチ(35=83年センバツ優勝投手) 「突然のことでびっくりしている。入退院を繰り返して、悪いとは聞いていましたけど……。2年前のオフにも徳島に帰ったときにお会いした。そのときは元気だった。甲子園に一緒に行って僕にとっては野球の原点。厳しかったけど、面白いところもあった。監督のおかげで全国的な人気にもなった。今あるのはあの人のおかげです。僕にとっては出発点なので特別な思いがある。やっぱり寂しいです」。


雰囲気ある人…

 ■巨人桑田真澄投手(33=83年夏の甲子園準決勝で池田高と対戦し白星、PL学園出) 「相手のベンチに座っている蔦さんしか知りませんけれども、雰囲気はありました。中学生の時から、池田はすごいチームだと思っていた。1年生だったし倒せるとは思っていなかった。自分の野球人生の節目の試合です。もし負けていたら、今の野球人生はなかったと思う。僕の野球人生であの1日は外せない。ごめい福をお祈りします」。


もう1度大舞台へ

 ■現池田高校野球部矢川雅英監督(34) 「練習試合から帰宅後に聞きました。とにかくびっくりしました。体を悪くされていることは前から知ってましたが……。この1年間、あと少しのところで甲子園に届かない状態だったので残念です。生きておられるうちにもう1度甲子園に行った池高の姿を見てもらおうと思っていたんですが……」。


心の師匠だった…

 ■常総学院・木内幸男監督(69=今春センバツで初優勝) 4、5年前の夏の甲子園で解説をご一緒させてもらったのが、お会いした最後になってしまいました。その時、目を悪くされてて心配していました。私の心の師匠でもありました。「攻めダルマ」として、私の場合はバントを使った攻めもありますが、目指すところは同じでした。甲子園で泰然自若とした姿は目標でした。心よりごめい福をお祈りします。


目標にしていた人

 ■名商大・中村順司監督(54=前PL学園監督) 寂しいですね。私もPL学園監督時代は、少しでも蔦先生に近づこうと目標にしていました。初めて対戦させていただいたのが83年夏の甲子園準決勝。7―0で勝たせていただきましたが、攻めダルマと言われた蔦先生の池田には、いつ試合をひっくり返されるか分からない迫力がありました。試合中は三塁側ベンチの蔦先生を、まともに見られなかった。


山あいの子に大海

 ■帝京・前田三夫監督(51=1983、85年センバツ、91年夏の甲子園で対戦) 蔦さんからは「山あいの町の子供たちに、1度でいいから大海(甲子園)を見せてやりたかったんじゃ」という色紙を頂きました。今でも私の宝物です。本当に選手思いの監督でした。私も30代のころは生徒を厳しく鍛えればチームは強くなると思っていました。この言葉からも分かるように、それだけじゃダメなんです。生徒を鍛える前にまず自分を鍛え直さないと、ということを教えられました。


マシンでガンガン

 ■福島敦彦氏(60=元報徳学園監督。1974年センバツ決勝で池田と対戦) 甲子園の高校野球に革命を起こした方でした。金属バットの採用に合わせて、力でねじ伏せて打ち勝つ池田の野球をつくり上げた。82年夏に伝統の広島商(決勝)をパワーで圧倒したのがその象徴。1年生の春からマシンでガンガン打たせる練習に驚いたものです。ごめい福をお祈りします。


金属象徴する指導

 ■日本高野連・田名部和裕事務局長(55) 「金属製バット全盛時代を象徴する指導ぶり、生徒の指導方法は豪快でした。まだまだお元気で高校野球を見守っていただきたかった。心からごめい福をお祈りします」。



悼む

「鍛錬千日の行、勝負一瞬の行」

 阿波の金太郎と呼ばれたエース水野雄仁(巨人投手コーチ)のチームで、史上初の夏春夏甲子園3連覇なるかと騒がれた1983年(昭和58年)6月。その年の徳島大会の少し前から、連載を行うために池田にへばりついた。蔦監督の素顔を含めた人生を、少しずつ知っていったのはそこからだ。

 蔦監督と池田高校野球部。「さわやかイレブン」や「山あいの町」、さらには「やまびこ打線」に「攻めダルマ」。紙面上では数々の思い出に残るフレーズも残った。しかしそれは、蔦監督が育てた池田野球部が、甲子園で成功をつかんでからのものである。

 蔦監督の野球人生は「負けからの出発であった」と思う。池田高校監督就任が52年で、甲子園初出場は71年の夏だった。その間、20年。甲子園初優勝が82年夏で、83年春と86年春と3度優勝。全国の頂点で輝いたのは、長い高校野球の歴史の中からみれば一瞬だったかもしれない。しかし輝くために、蔦監督もまた「準備期間」が必要だった。

 蔦監督にいただいた色紙がいくつかある。そのうちのひとつが「鍛錬千日の行、勝負一瞬の行」。自分の人生でもかみしめていきたい言葉を、いただいた。取材の中から教えを見いだし、それをまた自分自身でだれかに伝える……。そういうことも、蔦監督から教わった。合掌。

(宇佐見英治・名古屋日刊スポーツ新聞社編集部長)


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