東京五輪柔道重量級金メダリスト、
東海建設社長 猪熊功さん死去
1964年東京五輪の柔道重量級金メダリストの猪熊功(いのくま・いさお)さん(東海建設社長)が、腹部などを刃物で刺して死亡していたことが29日、分かった。63歳だった。28日午後7時すぎ、東京都新宿区内の同社社長室で血を流して倒れているのを社員に発見された。遺書があったことから、警視庁新宿署は自殺とみている。猪熊さんは小柄ながら、一本背負いなど多彩な技で一時代を築き、柔道が初めて五輪競技になった東京五輪で頂点に立った。
享年63歳
新宿署の調べによると、猪熊さんは28日午後7時40分ごろ、自らが社長を務める新宿3丁目の東海建設社長室で血を流し、倒れているところを社員に発見された。午後9時すぎに駆けつけた同署員が死亡を確認。社長室に刃物と複数の遺書が用意されていたことから、同署では自殺とみて詳しい動機を調べている。関係者によると、腹部などを刺したという。
猪熊さんは、66年に警視庁を退職して、同社常務に迎えられた。以後、柔道界で後進の指導などに功績を上げる一方で、社業にも全力で打ち込んだ。93年に同社社長に就任したが、最近は業績不振に深く悩んでいたといわれる。
小泉純一郎首相と同じ県横須賀高出身の猪熊さんは「昭和の三四郎」とたたえられた大柔道家だった。東京教育大4年で初出場した59年全日本選手権で、初の学生王者になり、身長173センチ、体重80キロと重量級としては小柄ながら、相手の懐に飛び込んでの一本背負いを得意技に活躍。ライバルの故神永昭夫氏と3年連続で全日本の決勝で対戦するなど「神永―猪熊時代」を築いた。
柔道が初めて採用された64年東京五輪では、昭和天皇、皇后両陛下ご観戦の中、大柄な外国人選手を小気味よく倒して金メダルを獲得。「柔よく剛を制す」の体現者として国民的ヒーローとなり、人気柔道漫画「YAWARA!」の主人公・柔の祖父「猪熊滋悟郎(じごろう)」のモデルにもなるなど、現代まで大きな影響力を残した。
3冠達成
65年世界選手権では、東京五輪無差別級を制したオランダの巨人、ヘーシンクとの対戦を熱望し、無差別級にエントリーしたが、大会直前に宿敵が突然の引退。失意の中、世界選手権を制し、全日本、五輪と合わせて3冠を達成したが「戦う相手がいなくなった」として、27歳で第一線から退いた。現役引退後も、79年から87年まで松前重義・国際柔道連盟会長の秘書を務めるなど、柔道界の発展に尽力。東海大では山下泰裕氏らを指導するなど、指導者としても功績が大きかった。
優勢Vに苦笑い
◆東京五輪VTR 柔道が正式種目となって初の五輪。昭和天皇、皇后両陛下が観戦する重圧の中で重量級に挑戦し、期待にこたえた。予選リーグ2勝(不戦勝含む)で決勝トーナメントに進出。準々決勝では金鍾達(韓国)に崩れ上四方固め、準決勝ではキクナーゼ(ソ連)に体落としと、すべて1本勝ちで決勝へ。決勝では32キロも体重差があるロジャース(カナダ)を攻めたてて優勢勝ちし、金メダル。腰つい分離症という難病を克服しての大願成就も、1本勝ちできなかったことに苦笑いを浮かべたエピソードで知られる。
◆東海建設 東海大学と大成建設を大株主とする土木建設会社。1962年設立。東海大のほか、東京都、都市基盤整備公団などの官公庁工事も受注し、猪熊さんが社長に就任した93年当時は受注高500億円を目指していた。しかし、建設不況で01年3月期の売上高は211億円だった。前期の194億円からは回復したものの、税引き後利益は1240万円にとどまり、収益性改善、財務改善に取り組んでいる最中だった。資本金3億円、従業員165人。
(写真=1964年東京五輪の柔道重量級決勝でカナダのロジャースを攻める猪熊さん(右))
| ◆猪熊功(いのくま・いさお) |
| 1938年(昭和13年)2月4日、神奈川・横須賀市生まれ。県横須賀高から東京教育大(現筑波大)体育学部に進み、59年と63年に全日本選手権優勝。64年東京五輪重量級金メダル。65年に世界選手権無差別級優勝。大卒後は順大体育学部助手、警視庁の柔道師範などを歴任。現役を引退した66年に警視庁を辞め、東海建設入社。73年に東海大体育学部教授、93年4月に東海建設社長に就任。日本柔道連盟強化委員なども務めた。著書に「ベスト柔道」(講談社)など。173センチ、88キロ。血液型A。
| | ◆葬儀日程 |
▼通夜 30日午後2時から、神奈川県横須賀市公郷町3の23、曹源寺で近親者だけの密葬として営まれる
▼喪主 長男亨(とおる)さん
▼自宅 横須賀市佐野町2の28 |
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気持ち通じ合った
東京五輪柔道中量級金メダリスト岡野功氏(現流通経済大学教授) すごいショックです。オリンピックの時は異常な雰囲気だったが(日本代表の)選手は話さなくても「頑張らなければ」という気持ちで通じ合っていた。2年ほど前に食事をしたのが最後になりました。
山下氏らが弔問
神奈川・横須賀市の曹源寺では、29日午後7時から近親者、近所の住民、柔道関係者だけで通夜が営まれた。山下泰裕氏も顔を見せていたという。突然の死去だったこともあり、献花などは受け付けなかった。葬儀社の社員は「死因も聞いていない」と戸惑いを隠すことができなかった。寺関係者は報道陣に対して「もう深夜ですので…」と話しただけで、取材に対して応じることはなかった
三船十段も惑わされたキレ
大相撲が栃錦―若乃花時代だったころ、柔道界は神永―猪熊時代だった。戦後の全日本柔道選手権大会で、学生でチャンピオンになった第1号が猪熊功さんである。その決勝の相手が神永昭夫さんだった。右の一本背負いで、鮮やかに投げたのを主審の三船久蔵十段が「まさか?」と目を疑って宣告が遅れ、十段が批判される、というオマケまでついた。
東京五輪に2人とも代表として出場した。重量級の猪熊さんはロジャース(カナダ)をきん差判定で退けて金メダルを手にした。
猪熊さんが柔道を始めたのは、横須賀の中学生時代だった。道場で新入りの猪熊さんを羽目板にぶつけていたのは、森徹(元中日、プロ野球解説者)と山村泰弘(大相撲の故宮城野親方)の2人だった。
愛称「クマさん」は、気前の良い男でもあった。東海大と縁が深かったが、母校筑波大の柔道部OB会などにも寄付を忘れないので、人気があった。98年10月27日、神奈川国体の横須賀会場に“年をとったロジャース”が訪ねてきた。カナダ航空ジャンボ機の機長だった。2人は再会を喜んでいた。
01年4月、女子柔道世界代表選考会の横浜会場で優勝した田村亮子とのツーショットで破顔一笑したのが、クマさんの最後の思い出となった。【宮沢正幸(日刊スポーツ新聞社OB、現拓殖大非常勤講師)】
[訃報ページ]
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