訃報 安らかなご永眠をお祈りいたします

古今亭志ん朝さん

「6代目志ん生」継がぬまま
      古今亭志ん朝さん逝く

 古典落語の名手として活躍した落語家の古今亭志ん朝さん(ここんてい・しんちょう、本名美濃部強次=みのべ・きょうじ)が1日午前10時50分、肝臓がんのため都内の自宅で死去した。63歳だった。今年8月に病院で検査を受け、末期の肝臓がんと診断された。

 名人として名高い5代目古今亭志ん生(享年83)の二男として生まれ、サラブレッドとして注目された。テレビやラジオでも活躍する一方、寄席の高座や独演会にこだわり続けた。30代からささやかれ続けた6代目志ん生の名跡襲名は、実現しなかった。


酒楽しむ

 志ん朝さんは聖子夫人(58)ら家族と5人の弟子に見守られながら、静かに息を引き取った。

 関係者によると、今年7月下旬の北海道巡業でかぜをひき、8月13日に都内の病院に入院。精密検査で、末期の肝臓がんと分かったが、同20日まで浅草演芸ホールでの高座があり、病院から通った。高座で顔色は悪く、本人も「声が出なくなってきたので、迷惑がかかるだろうか」と気にしたが、休まなかった。

 高座を終えた同23日、都内のがん研究会付属病院に転院する際、聖子夫人ががんであることを告げた。末期までとは言わなかったが「あっ、そうか」と淡々と受け止めたという。この時、弟子たちだけに事実が伝えられたが、周囲は持病の糖尿病の悪化かと思っていた。

 9月23日に、病院から帰宅を勧められ、自宅に戻った。点滴も外し体力は日に日に弱くなったが、大好きな日本酒は楽しんだ。この日午前8時に容体が悪化、最後は眠るようだった。

 志ん朝さんは、自宅和室の布団で静かに眠っていた。この日夜、落語協会会長の三遊亭円歌(72)、めいの女優池波志乃(46)中尾彬(59)夫妻ら、弔問客が次々と訪れた。

「四天王」

家系略図  父は志ん生、兄は10代目金原亭馬生(享年55)と、なるべくしてなった落語家と思われがちだが、外交官か歌舞伎俳優が夢だった。大学受験に失敗後、父から「噺(はなし)家になれ。扇子1本でどこだってメシが食えらあ」と勧められ、押し切られた。19歳で父に入門。父の最初の高座名「朝太」で前座、わずか2年で二ツ目、5年で真打ちに昇進。24歳は当時の落語協会最年少真打ちだった。親の七光に決して頼らなかった。

 古典落語に精進する一方、テレビ、ラジオで活躍した。立川談志(65)三遊亭円楽(68)橘家円蔵(当時月の家円鏡=66)といった当代の人気者と並んで「四天王」(円蔵の前に故春風亭柳朝で四天王といわれた)と称された。三木のり平さんに認められ、役者としての評価も高かった。テレビ出演も多かったが「私は寄席が本業ですから」と言い続けた。

ち密話芸

 「老松(おいのまつ)」の出囃子で粋(いき)に登場し、天性の明るさとリアルな人間描写、スピード感あふれる口調で、古典落語の登場人物に血が通った。「噺に新しい息吹を吹き込むつもりで、毎日が修業です」。名横綱双葉山と飲み比べしてぶっ倒れたという、破天荒で天衣無縫の名人志ん生とは違い、志ん朝さんはち密で完ぺきな話芸を目指した。若手を育てるために「二ツ目勉強会」も開催した。

 後輩たちから「朝(ちょう)さま」と敬意をもって呼ばれ、だれもがその才能を認めたが、志ん生の名跡は継がぬまま旅立った。

(写真=「にっかん飛切落語会すぺしゃる2001」で「野ざらし」を熱演する古今亭志ん朝さん=01年2月27日、東京・内幸町イイノホール)


◆古今亭志ん朝(ここんてい・しんちょう)
 本名美濃部強次(みのべ・きょうじ)。1938年(昭和13年)3月10日、東京生まれ。5代目古今亭志ん生(ここんてい・しんしょう)の二男。兄は10代目金原亭馬生(きんげんてい・ばしょう)。独協高卒。大学受験失敗後の浪人中に父の勧めで落語家を目指す。57年に父に入門し、古今亭朝太で初高座。59年に二ツ目、62年に真打ちに昇進し、志ん朝を襲名。得意演目は「火焔太鼓」「愛宕山」「三枚起請」「文七元結」「お直し」「強情灸」「船徳」「明烏」など多数。
 同年に東映「歌う明星・青春がいっぱい」で初映画、芸術座「寿限無の青春」で初舞台。63年からフジテレビ「サンデー志ん朝」やラジオ番組の司会も務めた。ふりかけ「錦松梅」やサントリーモルツなどのCMにも出演。72年に芸術選奨文部大臣賞、75年に放送演芸大賞、80年にゴールデンアロー芸能賞を受賞。96年に落語協会副会長に就任した。日劇ダンシングチームに在籍していた聖子夫人と69年に結婚。
◆葬儀日程
▼通夜 5日午後6時から、東京都文京区大塚5の40の1、護国寺桂昌殿
▼葬儀・告別式 6日正午から、同所で
▼喪主 妻聖子(せいこ)さん


志ん朝さん死去に落語界衝撃

 古今亭志ん朝さん(享年63)の訃報(ふほう)に、各界に衝撃が走った。志ん朝さんとともに「四天王」と呼ばれた三遊亭円楽(68)3代目月の家円鏡(66=現橘家円蔵)立川談志(65)はライバルであり親友の早すぎる死に絶句した。同じ年(62年)に真打ちへ昇進した円楽は「がんとは知らなかった。もったいないことよ」と惜しんだ。めいの女優池波志乃(46)は都内の自宅に駆けつけ、号泣した。

誰も知らぬ

 円楽は自宅のラジオで知った。「私より先に逝ってしまうなんて」と、ため息をついた。自身も慢性腎(じん)不全による週3回の人工透析で、体と相談しながらの日々。「強(きょう)ちゃん(志ん朝さんのニックネーム)の具合が悪いのは知っていましたが、がんとは知らなかった。糖尿病と聞いていたんです。協会仲間はだれも知らなかったはずです。彼も食事制限が厳しいだろうなあと思っていたんです」。真打ち昇進は同じ年でも、5歳年下で「兄(あに)さん兄さん」と慕ってくる、かわいい後輩だった。

 落語界入りの相談も受けた。外交官を夢見た大学受験に失敗し、浪人中に学生服で父志ん生のお供をしていた。「楽屋で、おやじさんと比較されるけど『耐えられるの?』と聞いたら『そんなこと大丈夫だよ』って、鼻っ柱も強かったねえ」。そして「流ちょうで立て板に水の話しぶりはイキで、噺(はなし)家を絵にかいたような感じだった。もうちょっと哀愁やペーソスが出てきたら、おやじさん以上になったはずなのに。これから、なんとまあ、もったいないことよ、ですね」と惜しんだ。

 円蔵は、都内の自宅で落語協会からの連絡を受けた。「しばらくはショックで何も話す気にならなかった」とポツリ。「ものすごく体を大事にする人だから悔しい」と話した。

談志は代演も

 談志は、出先に家族から連絡が入った。8月中旬、志ん朝さんが急性肺炎という理由で入院した際には、談志が代演した。1日、最初はコメントを固辞したが、所属事務所を通じて「惜しい人を故人にした」とだけコメントを出した。悲しみに耐えて、都内でNHK「芸能大全集」の収録に専念した。自身も97年に食道がんの手術を受け、現在も闘病中。気持ちを整理した上で、今日2日にも会見を開き心境を語る。


i古今亭志ん朝さん

めい池波志乃は号泣「あこがれのおじ」

 志ん朝さんのめいの女優池波志乃と池波の夫の俳優中尾彬(59)がこの日夜、東京都新宿区の自宅へ弔問に訪れた。3時間余り志ん朝さんに寄り添った。2人は「びっくりしました。がんだとは知りませんでした」と涙を浮かべた。池波の父馬生さんが亡くなった時、志ん朝さんは池波に「女優はメークしてる時には泣くな」と注意した。池波は「眠っているような、きれいなお顔でした。物心ついた時からきちっとした噺家で、あこがれのおじでした。最後まで、病院から仕事を務めたので本望だったと思います」と話した。

 中尾は談志と志ん朝さんの寄席の会「二人会」を企画していた。これから実現に向け動きだそうとしていた矢先だったという。中尾は「あの、あか抜けたはなしっぷり、天国に持っていってしまうんですよね」と寂しそうに話した。

 落語協会の三遊亭円歌会長(72)や漫才師内海桂子(78)林家こぶ平(38)北大路欣也(58)らも駆けつけた。円歌会長は「遺体を前に『強次、何で死んだんだ』と本名で呼び掛けてしまった」と涙を流した。

(写真=弔問に訪れた池波志乃)

40年前と同じ顔

 NHKドラマ「若い季節」(61年)での共演以来、親交があった黒柳徹子(68)もこの日、弔問に訪れた。黒柳は「40年前に初めてお会いした時と同じ、すてきなお顔でした」と肩を落とした。「志ん朝さんの落語を聴いて、あまりにもハンサムな人だと思い、共演できないかお願いしたんです」。入院中、再び「徹子の部屋」に出演してもらおうと手紙を書いた。志ん朝さんが病床で書いた返事は文面が乱れ、黒柳には手渡されなかったという。「もっと素晴らしい芸を見せて欲しかった」と唇をかんだ。

うなぎ断ち40年

 久米宏キャスター(57)がこの日、悲しみのコメントを寄せた。志ん朝さんは、久米氏が司会を務めるテレビ朝日「ニュースステーション」の番組内「最後の晩餐」(9月6日放送)でゲスト出演した。同氏は「今年の7月の初旬にお会いしたばかり。(入院は)聞いておりましたが、急なことで驚いております。最も尊敬する古今亭志ん生師匠の息子さんが、これで2人も亡くなられたことが非常に残念です」とコメントした。志ん朝さんは、二ツ目のころ身の回りに不運が続き、信心深い母が東京・谷中の寺に連れていった。当時の好物はうなぎだったが、その寺の菩薩(ぼさつ)のお使いがうなぎだったため、以来40年以上、うなぎを断っていた。同番組に出演した際には、日本酒を傾けながら「死ぬほどうなぎを食べてみたい」と、しみじみ語っていた。


これからの人が

 前落語協会会長の柳家小さん(86) まだ若い。これからという大事な人なのに、本当に残念だ。少し前に落語の理事会で会った時には、少しやせてはいたが8月の浅草演芸ホール出演の話などを楽しそうにしていて、まだ元気だと思っていたのだが。おやじさんの志ん生とはまた違った独自の志ん朝口調は、若手がまねようとしても、まねられないものだった。落語界にとって大きな損失。自分より若い者が先に逝ってしまって。情けない。本当に。

 落語家桂米朝(75) もう残念。誠に残念のひと言だ。次の東京の落語界を背負う人だったのに…。40年来の付き合いだが、明るい芸風だし、当時から「次の時代はこの人だろう」と目されていた。私よりだいぶ若いし、先に死ぬとは思わなかった。本当にがっくりしている。

 落語家林家いっ平(30) 僕たち若手にとっては神様のような存在でした。所作を教えてもらったりしたことが、かけがえのない思い出です。

世話物でも名演

 女優山田五十鈴(84) 色気のある落語家で世話物の名演ができる役者でもありました。演出の榎本滋民先生が「両生動物の天然記念物のような人」と称されたことが思い出されます。

江戸弁が逝った

 女優水谷八重子(62) きれいな江戸弁がなくなってしまった。逝ってしまった。江戸っ子として寂しい。もっと(江戸弁を)聴かせて欲しかった。1つの良い時代が終わったのかな? (送る言葉は? という質問に)送りたくない。信じられない。


悼む

「志ん生+円朝」自ら育てた「志ん朝」

 古典落語にとって掛け替えのない巨星が墜(お)ちた。衝撃の大きさに言葉がない。長嶋さんが「ミスタープロ野球」なら、志ん朝さんは「ミスター落語」だった。いろんな個性がある落語家の中で、明るくて、達者で、本寸法を外さない芸。古典落語があるべき最大公約数の「型」を表現する最大の存在でもあった。

 後輩によく言っていた。「古臭い噺に1カ所だけ風穴を開ければいいんだよ」。新しい時代に受け入れられるため、噺を壊してまでも新しいくすぐり(ギャグ)を入れることへの、警鐘だった。昔通りの古典を演じても、絶妙の間と、雰囲気を壊さない新鮮なくすぐりで、面白い落語を聴かせた。後輩たちへのアドバイスを自分の芸で示した。

 私の仕事で言えば、なかなか録音に踏み切らせてくれなかったり、録音しても、気に入らなければ発売させてくれなかった。芸をゆるがせにしない人だった。

 これで「志ん生」という大名跡復活が遠くなった。志ん朝さんが継げば、どこからも文句は出なかったはずだが…。潮時が来たら襲名する気もなくはなかった。が、「志ん朝」に愛着があった。父と、近代落語の祖、円朝からとったその名が好きであると同時に、自分がここまで大きくしたという自負も持っていた。

 新世紀に入って、新しい時代へのかけ橋となる巨大な存在だった。が、それ以上に「志ん朝の時代」を仕上げて欲しかった、と心から思う。喪失感はあまりにも大きい。

 京須偕充(きょうす・ともみつ、58=ソニー・ミュージックプロデューサー、志ん朝さんのCDを数多く制作、交友も深かった。にっかん飛切落語会選考委員)

東京落語の粋教えてくれた

 71年4月、上京して一番初めに聴いた落語が、まだ畳敷きだった池袋演芸場での志ん朝さんだった。演目は「妾馬(めかうま)」。大阪のアクの強い落語で育った身には何とも新鮮に映った。東京落語の粋。実際にそう意識したのは、それから何席も聴いてからだった。だが、この「初体験」がなかったら、今ほどの落語好きになっていたかどうか。

 今年2月、にっかん飛切落語会での「野ざらし」。しゃれこうべを釣りにやって来た男が先に釣っている男たちのそばへ寄って行くくだり。「そーら、行くぞ。今、行くぞ。ほら、来たぞ」の描写の面白かったこと。「愛宕山」の「オオカミにヨイショは効かない」とともに、志ん朝さんならではのくすぐりは、もう高座では聴けない。

(にっかん飛切落語会選考委員 今西和弘)


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