落語界初の人間国宝、柳家小さんさんが死去
落語界初の人間国宝で落語協会最高顧問の柳家小さんさん(本名・小林盛夫=こばやし・もりお)が16日午前5時、心不全のため東京・目白の自宅で死去した。87歳。昭和から平成にかけて「そこつ長屋」「時そば」など、こっけい噺(ばなし)の第一人者として名人芸を見せる一方、72年から24年間も落語協会会長として落語界の近代化に努めた。円満な人柄が慕われ、孫弟子まで含めると六十数人の一大勢力を誇った落語界の大看板が、世を去った。
「落語も剣も自然体」が信条だった小さん師匠らしい、穏やかでさわやかさすら感じられる死だった。弔問した三遊亭円歌落語協会会長(73)は「本当にいいお顔で、起こしたら起きてくれるのじゃないかと思ったくらい。いつも通り『おはようございます』と声をかけましたが…」と無念の表情で話した。 数日前から風邪をこじらせて微熱が続いていたが、それほど重症ではなく、家人によると前夜、出前のちらしずしを1人前ぺろりと平らげたという。この日、朝食に起きてこないので、長女美喜子さんが見に行ったところ、亡くなっていたという大往生だった。 小さん師匠は「心卑しき者、噺家になるべからず」と自らを厳しく律してきた。剣道(北辰一刀流7段)に打ち込んだのも、間(ま)が落語と共通ということと、平常心で高座に臨もうという気持ちからだった。終戦後、名人文楽・志ん生に「追いつきたい、近づきたい」とけいこに励み、まーるい顔にぴったりの長屋もの、職人ものを中心に名人芸に到達した。 特に、そばやうどんを食べるしぐさは真に迫っている上に、江戸前のいきな形と絶賛された。珍芸の部類に入る「百面相」で顔を真っ赤にしてタコの釜入りを熱演するなど、笑いにかけては出し惜しみしなかった。テレビCMなどを通し、落語ファンだけではない幅広い人気もあった。 大正に生まれ、昭和〜平成と生きてきた小さん師匠の69年に及ぶ落語家人生はまさに「激動」だった。少年時代には関東大震災を体験、軍隊では2・26事件に「知らぬ間に巻き込まれ」2度の海外派兵も経験した。そうした体験が生んだのか、円満で懐の広い性格が落語界全体に信頼された。 落語協会会長として近代化を進める新しい目も持っていた。72年、会長になると「初めは私費で協会事務所を借り、大学出の専任事務員を置いた」。三遊亭円生一派の脱退騒動や立川談志の独立などを引き起こした「大量真打ち」「真打ち昇進試験」を実行したのも「みんなが良くなるように」というまーるい精神からだった。円生脱退の時「しょうがねえな。話し合いにも来ねえで」と口をとがらせていた小さん師匠を思い出す。 ここ1、2年は口ごもったり、噺を2つ続けてしまったり、はらはらさせる高座が見られたが「好きな時に寄席へ来て『おれ、出るぞ』と言えば出られる状況だったから、幸せだったでしょう」(円歌)と「高座に遊ぶ」域になっていた。最後の高座は2月2日、鎌倉芸術館の「親子3代の会」のトリで演じた「強情灸」だった。
長男・三語楼「最近もしかられたばかり」
小さんさんは、長男の柳家三語楼(54)、孫の柳家花緑(30)と3代にわたる落語家一家だった。
6年前に小さんさんが倒れて以来、三語楼は4〜5日に1度の割合で自宅を訪ね「ひげをそったりしていた」という。この日も入浴介助のために訪問する予定だった。「ひげそりも入浴も嫌がらずに喜んでくれた」。父としてよりも師匠としての感じが強く「最近も噺の間が悪いとしかられたばかり」という。今はまだ、亡くなったことが漠然としており「寂しくなるのは、これからだと思います」。ひつぎの中には、落語より好きだったという剣道の道具を入れる。花緑は9歳から落語家になり、小さんさんと一緒に全国を回った。「教わることはすべて学んだ」。最後に会ったのは12日で「便秘だった師匠に『うんち出ましたか』と聞いたら『出ねえよ』。それが最後の会話になりました」。小さんさんは「心卑しき者、噺家になるべからず」という教えを4代目から受け継いだ。「その教えを忠実に守った人でした」。噺家としても人間としても、目標だとして「祖父のようになれたら最高だと思います」と、言葉にぐっと力を込めた。
(写真=柳家小さんさんの孫である柳家花緑は、祖父の生前の思い出を語った(上)、父・柳家小さんさんについて語る柳家三語楼(下))
桂文治「並ぶ人いない」
落語芸術協会会長の桂文治 本当に大きな噺家の星が落ちた。芸といい、貫録といい、小さん師匠と並ぶ人はいない。スケールが違う。去年お会いしたのが最後。高座で、まんじゅうを食べてたばこを吸うはずだったのに、終わった後「まんじゅう食べるの忘れちゃったよ」だって。そんなことも言える太っ腹な人だった。小さん師匠は若いうちに弟子をきちんと教えていたから、私も見習って若い者にしっかり教えるようにしている。年の順と言えばしようがないけど、ショック。寂しいですねえ。落語家桂米丸 今年1月にお会いしたとき、あまりお話をされなかったが、食欲もあり、お元気そうだったので訃報(ふほう)に驚いている。落語界にとって大変な貢献をされた功労者。芸はもちろん人柄もああなりたいと、小さん師匠を目標にしてきただけに、残念でならない。 落語家林家こん平 弔問に訪れた林家こん平(59=写真)は、終始神妙な表情で「弟子の不始末でよく怒られたが、小言の数だけかわいがってもらった。前座も真打ちも分け隔てなく接して、落語協会を引っ張った親分、大将だった」と話した。こん平が落語協会の理事に決まった時、満場一致の決定の報を最初にしてくれたのが小さんさんだったことなど、思い出を話した。 小さんさんを慕い新作落語も提供した映画監督山田洋次氏 三十数年前、新作落語を書いてほしいと依頼されてからのお付き合いで「寅さんシリーズ」の合間に3本の落語を書きました。その仕事を通して、小さん師匠からたくさんのことを学び、それが「寅さんシリーズ」を作り続けるにあたって、どれほど役に立ったか分かりません。だから僕は、小さん師匠の弟子だと勝手に決めていました。師を失った弟子の1人として悲しみでいっぱいです。 弟子の鈴々舎馬風 「人間を磨け、芸には人間が出る」が口癖だった。苦労を拒まない人で、弟子がいないとトイレ掃除や洗濯も全部自分でやった。落語界にとって、いてくれるだけでいいという人だった。 落語家・林家ペー 師匠の三平が尊敬する小さんさん、私にとって大きな人間だった。
西の人間国宝、桂米朝「寂しくなる」燃えつきた東の巨星を、西の巨星は万感の思いで見送った。小さんさんの突然の訃報(ふほう)に、兵庫・尼崎市の自宅で小さんさんと同じ人間国宝、桂米朝(76)も声をなくした。落語界初の人間国宝小さんさんと2人目の米朝は、10歳違い。米朝が自分自身で木戸銭を払って高座を聞いた最後の噺家だったという。「2・26事件に一兵卒として出動させられて、あの事件にかかわったのは有名な話」と話し始めた。47年には小三治を名乗り真打ちに昇進した活躍は、米朝にとっても意識するものだった。「芸風は若いときから爆笑型でね。ちゃんと本格的にやってそれでウケさせるという、40年も前からこの人中心の時代が来るというふうに思われていた人です」と華やかで勢いのあった小さんさんの語り口を思い起こす。 米朝は、小さんさんと高座での共演経験もあり「一昨年から名古屋に一緒に出て、聞いたのが最後やったと思うんやけどね」と振り返った。晩年については「昨年あたりはもうちょっとね、ぽーんと(ネタが)とんでしもたり、変わったり、そういう状態が出てたらしい。でももう存在してる、おってくれるだけで意味のある人でした」と、故人をしのんだ。 昨秋、古今亭志ん朝さん(享年63)が亡くなり、その際も「これからの人やったのに、惜しいことやわな」と肩を落とした米朝は、計り知れないショックを受けた様子。「2人も大きな存在が消えて、東京の寄席がさびしなるやろと思うね」と、声を落とした。
各局で追悼番組テレビ、ラジオ各局も、小さんさん追悼の特別番組を放送することを発表した。この日は、文化放送が急きょ「ニュースパレード」(月〜金曜午後5時)の番組内で、小さんさんの生前の出し物を放送した。 日本テレビでは、19日放送の「笑点」(日曜午後5時30分)の内容の一部を、司会の三遊亭円楽からのコメントと、96年1月に放送した小さんさんの落語「芋俵」に差し替えることを決めた。TBS「柳家小さん追悼落語特選会」(17日深夜1時55分)NHK「柳家小さんさん 名人芸をありがとう(仮)」(19日午後11時10分)など、追悼番組が予定されている。ニッポン放送も20日から24日までの「桜庭亮平・朝刊フジ」(午前4時30分)の番組内で小さんさんの秘蔵テープを公開し、故人をしのぶ。
◆デスクから◆ 柳家小さんさんが亡くなった。落語ファン以外にも、親しみやすい顔は広く知られ、特に部内の20、30代の記者の多くはテレビCMなどでの「優しいおじいちゃん」という印象があったよう。ごめい福をお祈りします。
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