訃報 安らかなご永眠をお祈りいたします

村田英雄さん死去、貫いた男の意気地

 「王将」「人生劇場」など男の世界を豪快に歌い一世を風びした歌手村田英雄(むらた・ひでお=本名梶山勇=かじやま・いさむ)さんが13日午前9時52分、肺炎のため大阪市内の病院で死去した。73歳だった。村田さんは持病の糖尿病が悪化し今年5月から入院、肺炎を併発し危険な状態が続いていた。最期は最愛の妻須真子さん(70)ら親族がみとった。心臓バイパス手術、両足切断など大手術を繰り返したが、歌うことへの執念で再起してきた。浪曲から演歌に転身し、戦後の日本歌謡を支えた大御所が、ついに力尽きた。

 所属事務所・新栄プロの山田太郎社長(53)によると、村田さんの容体が急変したのは13日午前8時すぎで、血圧が低下した。連絡を受けた須真子夫人が駆けつけ、二男の達也さん(46)らに見守られ、静かに息を引き取った。前夜は危険な状態ながらも意識はあり、須真子さんを自宅に帰らせようとするいたわりも見せていた。

 須真子さんは山田社長に「家族に見守られて亡くなったのは幸せでした。心臓がもったのは、本人がもう1度歌いたいという意識を強く持っていたからでしょう」と話したという。


村田さんの闘病経過
▽91年10月 前妻ユイ子さん、親友春日八郎さんが相次いで死去するなど、心労で持病の糖尿病が悪化。東京都内の病院に入院。
▽95年8月 大阪市内の友人宅で激しい胸痛を訴え「急性心筋こうそく」「うっ血性心不全」で緊急入院。
▽95年12月 風邪をこじらせて大阪府内の病院に再入院。
▽96年2月 6時間以上にも及ぶ心臓のバイパス手術を受けた。
▽同3月 糖尿病が原因で、右目白内障を起こし手術。1週間後には左目も手術した。
▽同5月 糖尿病の合併症から来る「右下肢閉塞(へいそく)性動脈硬化症」のため、右ひざ下を切断。
▽97年10月 アルコールによる低血糖で重体となり、東京都内の病院に緊急入院。
▽同12月 糖尿病性網膜症のため左目を手術。
▽00年1月 糖尿病の合併症で左足も悪化し、左ひざ下を切断。
 村田さんは持病だった糖尿病が悪化し、95年に心筋梗塞(こうそく)で倒れて以後、病魔と闘い続けた。両足も切断したが、そのたびに再起し、00年6月には須真子さんと再婚した。一貫して「男」を歌い「オレに引退という文字はない。歌うことがオレの生活なんだから」と言い続けてきた。

 浪曲師から「村田英雄」として演歌に転身した。浪曲で鍛えた低音で荒々しく歌う、骨っぽいイメージはデビュー作「無法松の一生」そのものだった。義理、人情、男の意気地を歌い上げた。♪吹けば飛ぶような 将棋の駒に、の名フレーズで知られる「王将」は、日本歌謡で初のミリオンヒットとなった。「人生劇場」は、原作(尾崎士郎)ゆかりの早大の“第2校歌”として、今も硬派な学生たちに愛唱されている。

 「哀愁列車」の三橋美智也さん(享年65)「お富さん」の春日八郎さん(同67)「東京五輪音頭」の三波春夫さん(同77)らと戦後の日本歌謡をけん引した。三波さんとは同じ浪曲出身で、ライバルといわれた。三波さんが高度成長期の日本を明るく応援したのに対し、村田さんはそんな社会で懸命に生きる人々を、時に厳しく、時にやさしく激励した。♪うれしかったら はらから笑え 悲しかったら 泣けばよい(「皆の衆」)に、みな大きな手拍子を打った。かつて「ただ歌えばいいってもんじゃない。僕は大衆に受け入れられた自分のリズムを守り、体に染みついた浪曲の『波』があったから幅広い演歌になった」と話した。

 任侠(にんきょう)映画では主題歌のほか、俳優として鶴田浩二(享年62)勝新太郎さん(同65)や高倉健(71)ら名優と渡り合った。私生活では酒豪で、豪快に遊びまわったが、役どころは善玉の親分が多かった。映画出演が続き「村田は歌をやめたのか」と皮肉られ、以後、一切、出演しなかったほど、意地のある人だった。

 演歌の低迷を憂い「演歌がもう一度、脚光を浴びるまで、オレはやめん」という思いは強く、それが生きる執念となった。最後は体重25キロにまでやせ、今月2日には医師から「あと数時間かもしれません」と宣告されたが、歌うことへの強い意欲から驚異的な生命力を見せた。

 遺体はこの日夕、家族とともにいったん大阪府内の自宅に戻り、その後、葬儀会場に運ばれた。親族ら親しい関係者だけで仮通夜が営まれ、夜遅くまで村田さんをしのんだ。




葬儀日程
▽通夜 14日午後7時から、大阪府門真市上島頭523の2、駕泉(かごせん)門真会館で

▽密葬 15日午後1時半から、同所で

▽音楽葬 21日午後2時から、東京都中央区築地3の15の1、築地本願寺 第二伝道会館で。
      葬儀委員長は新栄プロダクション西川幸男会長

▽喪主 妻梶山須真子(すまこ)さん



村田英雄さんの代表曲
発売年 タイトル メ モ
58 無法松の一生 浪曲界のホープから歌謡界に転向しての第1作
58 度胸千両 故三船敏郎さんがバックで太鼓の乱れ打ち熱演
59 人生劇場 任侠の世界に命をかけた男・飛車角の人生歌う
61 王将 将棋の鬼・坂田三吉の心意気を歌った
63 柔道一代 柔道ブームの中発売。男のエネルギーを感じる
64 姿三四郎 当時人気のフジテレビ系同名ドラマの主題歌
64 男の土俵 角界と交流あった村田さんが初めて作詞作曲
64 皆の衆 公演のフィナーレで欠かせなかった手拍子もの
64 花と竜 村田さん主演ドラマの主題歌。火野葦平原作
66 祝い節 当時あったNHK「きょうのうた」用に作られた
67 夫婦春秋 芸能生活30周年記念曲。夫婦ものブームはしり
89 俺が村田だ 清水アキラのものまねギャグがきっかけで制作
99 男、朝吉 任侠映画「悪名」の主人公に自分の姿を重ねた
00 男の門出 両足切断、再婚を経て、新たな出発を期して発売

 ◆各局で追悼番組
 テレビ、ラジオ各局は村田さん追悼の特別番組を放送することを発表した。NHKは16日午後2時15分から「村田英雄さん たくさんの勇気をありがとう」(仮題)、テレビ東京は15日午後1時半から「追悼・村田英雄さん…」を放送する。TBSラジオは14日午前8時半から「大沢悠里のゆうゆうワイド緊急特集 追悼村田英雄さん」、ニッポン放送は16日午前5時半から「玉置宏の芸能伝説『村田英雄追悼スペシャル』」を放送する。
村田英雄さんのプロフィール

 ▽村田英雄(むらた・ひでお)本名梶山勇。

 ▽生まれ 1929年(昭和4年)1月17日、佐賀県相知町生まれ。父春雄は浪曲師浪花綱若。母スミ子は三味線を弾く曲師。

 ▽浪曲師 幼いころから両親の巡業に同行、京山茶目丸と名乗り5歳で初舞台。7歳で浪曲師酒井雲の門下生となり13歳で酒井雲坊と名乗り天才少年浪曲師と騒がれた。51年に日本一を夢みて東京に進出。

 ▽歌手 ラジオで村田さんの浪曲を聞いた作曲家古賀政男さんに見い出され演歌歌手に転向、58年8月に「無法松の一生」でデビュー。「王将」「人生劇場」「皆の衆」などが次々とヒットし不動の人気を獲得。62年に日本レコード大賞特別賞、95年には同賞功労賞を受賞。

 ▽俳優 59年の大映「よさこい三度笠」が映画デビュー作で、以後「人生劇場・飛車角」や「兄弟仁義」シリーズなど東映仁侠路線など38本に出演。舞台も61年の新宿コマ劇場「歌う国定忠治」を皮切りに多数出演。

 ▽結婚 50年に少女浪曲師だったユイ子さん(享年61)と駆け落ち同然に結婚、2男1女をもうけるが91年に死別。20年間の交際があり闘病中も支えとなった須真子さん(旧姓石田)と00年6月に再婚した。

 ▽座右の銘 「真実一路」。趣味は釣り、日本刀の収集。



壮絶「人生劇場」に幕、芸能界にも衝撃走る

 村田英雄さんの訃報(ふほう)に、後輩の歌手たちは絶句し、涙した。村田さんとは40年の付き合いになる歌手北島三郎(65)は公演先の大阪市内のホテルで会見し「さみしい。歌が、芸事が本当に好きな人だった」と語った。今月(6月)4日にお見舞いに訪れた歌手島倉千代子(64)は「悔しいね」とコメントした。だれもが偉大な先輩の死去を悲しんだ。

 大阪・梅田コマ劇場で公演中の北島は、大阪市内のホテルで会見した。「村田さんはきっと『北島、笑えよ』って言うと思うから、あえて笑顔を見せているんだ」。そう言いながらも、「心の中はさみしい。すてきな先輩だった」と唇をかみしめた。

 62年に東京・歌舞伎座で開かれた「王将」のヒット記念パーティーが初舞台という縁を持つ北島は「自分の『ギター仁義』を歌わせてもらった。一生忘れられない舞台。村田さんの浪曲は絶品。永遠に残るし、後輩のわれわれが歌い継がねばならない」と話した。

 その後、北島自身が主演した映画「兄弟仁義」シリーズ(第1作は66年)で、何度も共演した。大阪に滞在中で村田さんの病状を聞いていた北島は「見舞いにいった撮影所の連中に『遊びに行きたいよ』って言っていたんだって。きっと、映画の思い出があったんだろうな」と話した。「無愛想だけど、いい顔していた。豪快で酒飲みで。見舞いにいくと、お前も気を付けろって、人のこと心配する。熱いものをもった人だった。運動神経が悪くてね、野球をやるとボールが顔に当たってからグラブを出すほどだった」と、目を真っ赤にして話した。

 危篤となった4日に見舞った島倉千代子は「もっと歌いたかったのに、悔しいね。でも好きなように歩いていたもの、生きていたもの。お疲れさまでした。ぐっすりおやすみなさい」。都はるみ(54)は「とにかく豪放磊落(らいらく)を絵に描いたような大先輩で、いつも楽屋から『ワハハハ』という大きな笑い声が聞こえていたのを思い出します。男と女の差こそあれ、いつもわたしの歌の、特に節回しの参考にさせていただきました」とコメントした。10歳でデビューした時から「チビ」とかわいがられた小林幸子(48)も「女性のお話が大好きで、本当に豪快な男らしい方でした」とコメントした。村田節の復活を信じていただけに、だれもが悔やんだ。


 ◆たけしもショック 80年代半ばにラジオの深夜放送「ビートたけしのオールナイトニッポン」は村田さんの「頭」をテーマに「デカ頭コーナー」を展開した。ビートたけし(55)は当時「飲み屋に行ったら村田さんがいて、ボトルじゃなくて『ボルトをくれ』って言ってたよ」などギャグを飛ばし、愛称の「ムッチー」をはやらせた。村田さんはこれを契機に若い世代にも支持も得た。関係者によると、訃報を聞いてたけしは大きなショックを受けているという。同番組の構成も担当した高田文夫氏(53)は「僕とタケちゃんのいたずらもドーンと受け止めてくれた」と話した。

 ◆「村田だ」悲し清水アキラ 「オレが村田だ!」の名フレーズを流行させたタレント清水アキラ(47)も恩人の死を悲しんだ。「今日私があるのは村田先生のおかげです」と目を潤ませた。村田さんの物まねは16年前の86年から始めた。「その3年後に先生の番組で初めてお会いした時、『宣伝してくれてありがとうな。うれしいんだ』とおっしゃっていただいて、心が開けたんです」と感謝の言葉は尽きなかった。コンサートの最後は「皆の衆」と決まっているが「これから寂しくなります」と声を落とした。

 ◆代表曲「王将」を作曲した作曲家船村徹(71) 裏表のない正直な人で、思い出話は尽きない。オーディオが普及していない時代にレコード業界の夢だったミリオンセラーを初めて達成した、今では想像を絶する大スターで、三波春夫さんと肩を並べていた。浪曲から歌謡界に転身したが、浪曲の精神そのままで苦労して生き抜き、4年前「忍耐」という曲をレコーディングしたときも、一生懸命、情熱的にやっていた。頑張り抜いた人生、ゆっくり休んでくださいと言いたい。

 ◆ダイエー王監督(62) 家が近所だったんで飲食店でお会いしたことがある。足を切ったけど戦前の人間の気骨をみせ、人間の強さ、男らしさをみせた。「人生劇場」とか「夫婦春秋」とかいい曲が多くてどれか1つ挙げろといわれても厳しいね。最後まで歌とともに歩んできて本人も幸せだっただろう。

 ◆村田さんの先輩で歌手仲間の田端義夫(83) 豪快な人生だったけど、ちょっと早すぎたのと違うかな。今ごろ向こうで「王将」をうなっているでしょう。いずれは私もいくから。

 ◆同じ事務所で20回以上も舞台で共演した歌手大月みやこ(56) 村田さんが築いてくださった大切な日本の歌謡曲の宝物を忘れず、つないでゆく端っこの1人になりたいと思います。

 ◆初コンサートの時に激励された歌手三船和子(54) 昭和の巨星が、また1つ消えてしまいました。村田先生の歌は永遠に「日本の心」として歌い継がれていくことでしょう。

 ◆アルバムで「無法松の一生」「花と竜」をカバーしている演歌歌手氷川きよし(24) (僕が)九州出身ということもあり「無法松の一生」を大切に歌わせていただいておりました。僕の歌を一度生で聴いていただきたかったと残念でなりません。偉大な先生の曲を、僕たち若い世代が大切に歌い継いでいきます。

 ◆舞台で「無法松の一生」を歌っている歌手中村美律子(51) 村田先輩のお力添えとのおかげと、舞台では心よりご冥福と感謝の気持ちを込めて歌わせていただきます。

 悼む 豪放らい落、礼儀には厳しく

 「ムッチー」の愛称で親しまれ「御大」とも呼ばれた村田英雄さんが亡くなった。歌謡界の大黒柱として実績を残し活躍を続けただけに「戦後が終わった」という思いがする。

 村田さんに取材する度、感じたことは前に打って出ようとする気迫のすごさだった。豪放らい落のイメージ通りに自分の意見をズバズバ言うが、いつも笑顔を絶やさない。親近感を抱いたものだ。だが、芸能界の後輩に対しては口のきき方や礼儀、態度などとても厳しかった。宇多田ヒカルの母で、人気歌手だった藤圭子が「無法松の一生」を無断で歌い逆鱗(げきりん)に触れたことも忘れられない。

 春日八郎さん、三橋美智也さんと「三人の会」を結成して活動したが、仲間が先に逝った。しかし「あの世から先輩がまだ死んじゃいけないと声をかけてくれている」と自らを奮い立たせた。常に前向きだった。芸能界は、間違いなく、大きな財産を失った。

【本紙編集委員・小林秀夫】