訃報 安らかなご永眠をお祈りいたします

ヤクルトの名物応援団長・岡田正泰さん死去

岡田正泰さん  ヤクルトファン一筋50年で私設応援団「ツバメ軍団」応援団長、岡田正泰さんが30日、肺炎のため都内の病院で亡くなった。71歳。傘を振りかざしながら東京音頭を歌うユニークな応援スタイルの発案者で、ファンなら知らない人はいない名物おじさん。今季も連覇を祈って応援を続けていた。チームは広島に完敗を喫し6連敗。弔いの白星を届けられなかった。

 突然の訃報(ふほう)だった。関係者によると岡田さんは19日からチームの札幌遠征の応援に駆けつけていたが、帰京後に風邪をひいたという。29日夜に容体が急変し、緊急入院したが30日午前8時に息を引き取った。数年前から肺を患っていたが、今季も神宮球場に姿を見せていた。蒸し暑い東京と涼しい北海道との気温差もあり体調を崩したようだが、3日前にも応援団の知人に電話をしており、そのときは体調面のことは何も話さなかったという。

岡田正泰さん  岡田さんはヤクルトが国鉄時代だった1952年(昭和27年)からスワローズ一筋という筋金入りのファンとして有名だった。当時のチームは万年Bクラス。1人フライパンをたたいて応援していたが、その輪が広がるにつれ「どこの家庭にも必ずある」こうもり傘に変更。しかし、観戦の邪魔になることもあり、青、そして近年は緑のビニール傘を採用した。78年チームが初優勝した年に、7回の攻撃前に「だれでも知っている」東京音頭を合唱するパターンを定着させた。ガリ版刷りによる歌詞カードをスタンドで配って歩いたりもした。家業の看板製作のノウハウを生かし、手作りの横断幕で選手を励ました。昨年、チームは4年ぶりの日本一に輝き、テレビに出演するなど元気な姿を見せていた。

 岡田さんが愛し続けたチームは、先週巨人に3タテを食らい、この日は広島黒田を打ち崩せずに完敗。6連敗で自力優勝の可能性も消滅した。岡田さんはチームの連覇への可能性が低くなる中、天国に逝った。

 悲報を聞いた若松監督は試合後、「試合前に聞いた。酒もたばこもやらない人だった。一生懸命応援してくれたので感謝している。だからこそ勝ちたかったんだけど…。これからも天国で見守っていてほしい」と沈痛な表情で死を悼んでいた。

(写真・上=92年の日本シリーズ第1戦で応援の音頭をとる岡田正泰さん、下=93年の日本シリーズ第2戦でも傘の花とともに熱烈な応援)

◆岡田正泰(おかだ・まさやす)
 1931年(昭和6年)4月8日、東京生まれ。高校中退後、証券会社に勤務。その後父親のあとを継ぎ、看板製作会社「オカダ工芸」の社長に。20歳のころからヤクルトの前身、国鉄スワローズの私設応援団に入り、神宮の名物おじさんとなった。
葬儀日程
▼通夜 7月31日午後6時から。
▼告別式 8月1日午前11時から。いずれも東京都杉並区荻窪2の25の1「中道寺會堂」にて。喪主は妻千鶴子(ちづこ)さん。


 ◆池山、悲報に絶句  チーム現役最年長で19年目のベテラン池山が、岡田さんの悲報に絶句した。しばらく立ちつくしたまま微動だにしなかった。「エッ、ホント? いつ? だって去年パーティーで会ったときに、すごい元気だったのに」。今年3月には応援団を通してTシャツをプレゼントしたという。「安らかに眠ってください」と故人のめい福を祈っていた。

 ヤクルト真中選手会長「試合前に聞かされた。外野でいつも応援してくれていたのに…。」


荒木大輔「感謝の気持ちでいっぱい」

 僕が入団した82年ごろは毎年5、6位争いというのがヤクルトでした。最初の5年間で4度、最下位ですから。92年に14年ぶりに優勝。その時に岡田さんがこう答えていたのを今でも覚えています。ヤクルトをずっと応援してきた理由を聞かれ「たまにしか勝たないからこそ応援できるんだよ。この喜びはほかの人には分からないと思うよ。1勝の重みがほかのチームでは味わえないから」。この言葉を耳にして「僕らも頑張らなきゃ」と思ったものです。

 中学時代から「ヤクルトには名物応援団長がいる」というのは知ってました。プロ入り後も激励会などで顔を合わせて、いつも励ましてもらいました。応援スタイルが違うんですよね。相手をヤジり倒すような感じでなく、チームや選手をひたすら応援する。それが岡田さんのスタイルでした。選手にすればありがたい。神宮で必死に投げている時、熱い応援で後押しされてるようですからね。

 ヤクルトは優勝すると必ず、右翼スタンドに走っていってフェンスによじ登りますよね。岡田さんら応援団に支えられて、そのお礼を込めた行動なんです。

 ヤクルトという球団、選手を育てていただいた岡田さんに、感謝の気持ちでいっぱいです。(元ヤクルト投手、日刊スポーツ評論家)


[訃報ページ]