元球児の高校時代に迫る連載「追憶シリーズ」。第3弾は板東英二氏(77)の登場です。

 甲子園で大会規定による延長引き分け再試合は12度しかありません。その初のケースが決まったのが、1958年(昭33)8月16日でした。

 徳島商と魚津の一戦は延長18回を戦っても決着がつきませんでした。徳島商エースは板東氏。その夏の大会で板東氏が奪った三振は、83を数えました。

 約60年前に打ち立てられた1大会83奪三振は、いまも大会記録として残る金字塔です。

 記録にも、記憶にも残る夏への道のりを全10回の連載で振り返ります。4月28日から5月7日の日刊スポーツ紙面でお楽しみください。

 ニッカンスポーツ・コムでは、連載を担当した記者の「取材後記」を掲載します。

取材後記


 1通の手紙が届いた。連載の主役だった板東英二さんからだ。原稿を書き終えたちょうどその時期のことで、和紙の便箋に達筆な筆書きでしたためられていた。

 「寺尾さんのやさしさこそ自分にあればと教えられ、その上に身に余る記事で反省しきりで………この先、短い命ですが今さら遅きに失したと思いますが、人の温かみを知りながら消えていく自分の幸せを教えてくださった記事に感謝申し上げます…」

 こちらは取材に誠実に向き合っていただいただけで恐縮しきりなのに、逆に取材のお礼といわれて頭が下がる思いがした。甲子園での豪快さとは裏腹で、繊細さと人柄が伝わってきた。

 今回の取材では板東さんをはじめ大勢の関係者にインタビューを試みた。そのすべての方々に共通しているキーがあった。

 「ふるさと」-。

 板東さんの手紙には「今徳島に行く予定を企てております」と久しぶりの帰省を考えているという。望郷のノスタルジーを感じたに違いなかった。

 徳島商と壮絶な戦いを演じた魚津エースの村椿輝雄さんは、就職で都会にでてから富山を離れている。

 ご自宅での取材を終えて帰り支度をしていると、史子夫人から「ちょっと食べていきませんか」と呼び止められた。

 目の前に出てきたのは富山名物の「ますのすし」だった。ササに包まれた郷土の押し寿司。愛妻は「ここのが一番おいしいのよ」とお国自慢を展開した。

 こちらも同じ日本海側の福井県出身であることを告げると、こたつに足を入れながら「ふるさとの味」とともに話は尽きなかった。

 甲子園で熱戦を演じた人たちは、それぞれが、それぞれの道を歩んだ。しかし、勝者も、敗者も、だれもが青春を野球に打ち込んだ原点、ふるさとへの郷愁にかられていたのが印象的だった。

 ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しく思ふもの…、そう郷里を恋しがったのは、金沢生まれで日本を代表する詩人、室生犀星である。

 板東さんの手紙は次のように締めくくられている。

 「また、甲子園でお会いしましょう…」

 「心のふるさと」がなつかしくなったようだ。【寺尾博和】