元楽天投手の寺田龍平さん(28)は、博報堂DYデジタルに勤めている。名刺に書かれた部署は「パフォーマンス業務推進ディビジョン 戦略ユニット第二グループ アカウントプラナー」とある。


 寺田さん(以下、敬称略) 簡単に言うと、クライアントがデジタル広告を出す際の戦略立案や実行・分析をしています。どうやって企業をブランディングし、ユーザーを引き込んでいくか。例えば広告のコピーや背景の色によってユーザーの動きが違って、それが数字でリアルタイムに結果として反映される。無意識に行動している人をいかに動かしていくか。とてもおもしろいですよ。


博報堂DYデジタルで働く寺田さん
博報堂DYデジタルで働く寺田さん

 北海道ナンバーワンの進学校、札幌南高校から2007年高校生ドラフト1巡目で楽天に入団した。

 現役時代に早大eスクールに入った。通学の必要はなく、パソコンを使って講義を受けてリポートなどを提出する。卒業すると学士が取得できる。労組日本プロ野球選手会の説明会で存在を知り、興味を持って申し込んだ。プロ2年目から練習を終えた後、部屋でパソコンに向かって勉強を続けた。


 寺田 夜とか休みの日にやっていました。2軍にいると、夕方には練習が終わる。その後、夜7時から10時ぐらいまでやっていましたね。興味のある授業を選択できるので、おもしろかったですよ。環境学とか、プログラミングとか、統計学ですね。


 4年間に及ぶプロ生活で1軍には1度も昇格できなかった。11年限りで戦力外通告を受けると、すっぱりと引退を決めた。

 IT企業で約3年半働き、次にスポーツマネジメントの仕事をした。現在の博報堂DYデジタルは3社目になる。


 寺田 ここで落ち着くかなと、自分はそう思っています。


 勉強ができるドラフト1位だった、寺田さんのセカンドキャリアに迫りたい。


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 北海道札幌市で生まれた寺田さんは、小学2年で野球を始め、中学では「札幌広島グロウィングス」という硬式チームに所属していた。学校ではバスケットボール部に入った。


 寺田 野球を優先して考えていました。平日はバスケで、週末は野球ですね。


 中学時代の学業の成績を聞いた。


 寺田 1度だけ4を取りました。美術です。絵が苦手でした。1年生の時でしたね。あとは5です。


 あとは全部5? つまりその1度の他は、すべてオール5?


 寺田 そうです。1学年100人ぐらいの小さな中学ですけど、五教科(国語、数学、英語、理科、社会)はテストの点数で負けたことがありません。勉強は好きでしたね。得意科目は社会で、苦手は国語でした。


 苦手といっても「5」なので、まったく説得力がない。


 寺田 2年生の後半から塾に通うようになって、面談で札幌南を勧められました。学区外でしたが、それを目標に勉強しました。


 北海道で随一の進学校で、東大、京大や地元の北海道大など難関校に合格者を出す。一方で野球にも力を入れており、旧制の札幌一中時代の27年、39年に甲子園出場を果たした。2000年には61年ぶり3度目の出場を勝ち取り、1回戦でPL学園と戦った。0-7で敗れたものの、大応援団が甲子園に駆けつけて大いに話題になった。

 同校に合格した寺田さんは、甲子園を目指して野球部に入った。


 寺田 入部は同級生で一番遅く、4月下旬でした。入学当初はグラウンドに雪が積もっていて、野球部は毎日雪かきをしていたんですよ。雪かきはやりたくないなと思って、雪が溶けてから入りました。


07年6月、高校野球地区大会で登板した札幌南のエース寺田
07年6月、高校野球地区大会で登板した札幌南のエース寺田

 文武両道の札幌南野球部では、新入生の入部時に恒例行事があるという。


 寺田 先輩から「浪人する覚悟はあるか?」と聞かれるんです。それぐらい野球に集中するかという意味ですね。ネタのようなところもありますが、私も聞かれました。浪人する気はなくても、みんな「はい、あります」と答えます。


 野球部員は昼休みに着替え、午後はユニホーム姿で授業を受ける。


 寺田 授業が終わったら、すぐ練習ができるようにです。野球部は熱心にやっていました。


 高校での学業はどうだったのか。


 寺田 赤点を取らないようにテスト前だけ勉強するような感じでした。学年320人中200番ぐらいですかね。中学校で1番の成績という生徒ばかり集まるから、もう勉強で対抗しようという意識がなくなりました。勝てないなと思って。でも、同じスケジュールでやっている野球部員でも、現役で東大に入る者もいます。私の同級生にもいた。大学で2留ぐらいしてましたけど。


 1年時に2者面談があり、卒業後の進路について聞かれた。


 寺田 「プロ野球にいきたい」と言ったら、「いや、そうじゃなくて…卒業後の進路だよ」と言われた。私自身も、野球少年が「プロ野球選手になりたい」と言うのと同じレベルだったと思います。憧れでしかなかったけど、進路を否定されて悔しかった。


 ただ、2年で球速が140キロを超えると意識が変わった。


 寺田 本当にいけるかも…と意識するようになった。スカウトの方に会ったことはないけど、見にきているという話も聞いていましたから。


 3年では球速145キロにも達した。ただ、最後の夏は南北海道大会の準決勝で函館工に0-1で敗れて甲子園には届かなかった。サヨナラ負けだった。


 寺田 夏以降はドラフトにかかるつもりで練習に参加しながらも、進学の準備もしていました。


 巨人、楽天、ソフトバンクなど数球団から調査書が届いていた。指名される期待は持っていた。

 一方で、進学の準備もぬかりなかった。高校時代は野球に集中していたため、受験勉強は遅れていた。一般受験ではなく、慶大のAO入試を目指した。学科試験で合否を決める一般入試と違い、面接や小論文などから個性や適性評価が行われる。


 寺田 論文を書いていました。テーマは環境問題です。地球温暖化を防ぐためにどうすべきか。動的エネルギーを新たにつくればいいと。そういった内容でした。


 具体的には、どういう案だったのか?


 寺田 野球部の練習では、ウエートトレーニングで100キロのバーベルとか持ち上げるでしょう。この動きをエネルギーに変えられないかと。日本中の野球部でトレーニングをしているから、これを新たなエネルギーにできればという案でした。まあ、実現はしないでしょうけど、おもしろいと思いました。


 ドラフト直前、北海道の地元紙に「日本ハムは寺田をリストアップしていない」という内容の記事が掲載された。


 寺田 日本ハムの地元枠じゃなければ無理かなと。巨人からは、人づてに「大学に行って活躍してから」という話も聞きました。だからドラフト当日は、期待もしていませんでした。大学に行こうと思っていました。


 高校生ドラフトが開催された10月3日、札幌南では球技大会が実施されていた。寺田さんは、得意のバスケットボールに出場していた。


 寺田 いきなり同級生に「おめでとう」と言われました。バスケで勝ち進んでいたから、そのことだと思って「ありがとう」と答えた。そうしたら、野球部の仲間が「寺田、ドラフト1位!!」と叫びながら走ってきて、みんなが集まりました。


 楽天のドラフト1位だった。父からは「できれば大学に行ってほしい」と言われたが、迷いはなかった。


 寺田 もう自分ではプロと決めていて、話も聞いていませんでした。父も「できれば」という言い方で、強く言われたわけでもありません。


 環境問題の小論文は日の目を見なかった。寺田さんはプロに入った。


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07年12月、楽天の入団会見で笑顔をみせる寺田(右)と島田亨社長
07年12月、楽天の入団会見で笑顔をみせる寺田(右)と島田亨社長

 1月に新人合同自主トレーニングが始まった。


 寺田 練習時間は長くなったけど、やることは野球部の延長で、それほど戸惑いはありませんでした。でも、私生活で気を使いました。「ジャージーで外出してはいけない」というルールもあり、プロ選手として人に見られていると意識するよう指導されました。あとは…先輩たちからは「変わったヤツ」と見られていたかな。「お前、頭いいんだろう」とか言われましたね。


 有名進学校からのドラフト1位とあり、周囲から好奇の目で見られた。


 寺田 今でも恨んでいることがあるんです。


 そう言って笑いながら、入団当時のエピソードを話した。(つづく)【飯島智則】