横綱稀勢の里(本名萩原寛、32=田子ノ浦)が、約17年に及ぶ波乱に満ちた力士人生に別れを告げた。稀勢の里を取材した日刊スポーツ記者が、とっておきの秘話を紹介する。

   ◇    ◇

9年ぶりに相撲担当に復帰した13年4月から、稀勢の里に言われ続けてきたことが「2つ」ある。

1つは「何か話すとニッカンは漏れなく記事になるからなぁ。怖い、怖い」。

思えば、よく書かせてもらった。中には困らせたこともあっただろう。だが、あえて書かなかったこともある。今は違う、と自己判断して、つい最近まで誰にも知らせずに。だが、書くべきときが来てしまった。

左腕はもう厳しかった。

感動的だった17年春場所の横綱初優勝の後、協会に「左大胸筋損傷、左上腕二頭筋損傷で約1カ月」の診断書が出された。しかし、大阪から帰京後により詳しく検査を受けると、左腕は筋断裂していた。それも、手術をしようにも、できないほどの大けが。完治はおろか、10ある力のうち、6割出せればいい方だった。

良くも悪くも、あきらめを知らない男。投げ出すことができない男。周囲を鍛えることで、10ある力のうち7、8、9割に近づけようともがいた。その復活劇を、自分も信じたかった。

だが、3日目の栃煌山戦で、伝家の宝刀だった左のおっつけは力なく滑り抜けた。幾度となく相手を横向きにさせてきた武器が、もう出ない。現実が突きつけられるには十分だった。

あまたの熱視線を受け、こんなにも期待され、ため息に変えてきた力士はいない。ただ、どれほど批判され、苦境が続こうとも、想像以上の喜びに満ちあふれようとも、ぶれなかった。それが稀勢の里だった。

待望の初優勝と横綱昇進を果たした17年初場所後、取材申し込みが殺到した。中には、大抵の人は喜ぶような有名雑誌からも来た。それをあっさりと断った。「優勝したから話を聞かせて、というのは違う。苦しいときもずっと見てきてくれた記者さんたちの方を大事にしたいじゃない」。

思えば、昔から律義だった。最初の担当時代の04年、新十両昇進による初サインを読者にプレゼントしたいと考えた。約束してくれたが、サインが許される番付発表の日はほかに会見があり、訪問は早くても午後になる。“初”はあきらめて部屋を訪れた。色紙に記したのは「萩原」という普通の楷書体。およそサインらしくない字体だったが、雑誌で練習したと笑い「1号っすよ」と言った。待っていてくれた。

それから13年が立ち、2度目の担当を離れることになった17年秋巡業で、再びサインをくれた。色紙には「好きな言葉」だという2文字が添えられてあった。

「前へ」

けがに悩まされていた自分自身への問いかけのようにも思えた言葉だった。

相撲以外には冗舌だった。興味の幅は広く、エアロビクスやスカッシュ、セパタクローなどの大会をわざわざ録画する。武道も好み、合気道は習いにも行った。「やっぱり何かあるんだよ。(体重50キロの)おじいさん先生に持ち上げられたから。体が浮いたもの。力じゃないんだよね」。呼吸法など多くを取り入れた。

だが、相撲については多くを語らない。彼と向き合うとき、どんな質問で言葉を引き出そうか、勝負に挑む気持ちだった。真っ向から受け止めてくれるときもあるが、簡単にあしらわれることの方が多かった。行きすぎると「ニッカンらしい質問だね」と言われて「場所が終わったら話すよ」「やめたら話すよ、いくらでも」と。この言葉も何度、聞いたことだったろう。

その日が来るのは、まだ先のことだと願いたかった。まだまだ前へと歩む姿を見たかった。早熟にして晩成の相撲人生。やっと横綱稀勢の里時代が訪れたと思っていた。多くの人と同じく、自分も無念で寂しい。

ただ、横綱はこうも言っていた。「『あのときは良かった』と思ったら終わり。過去の栄光のことを言われて喜ぶような人間には絶対になりたくない。今やれると思えれば必ず復活するためにやる。やる気がなくなったら、そのまま…」。

だからこそ信じる。稀勢の里は相撲人生をやり切ったのだと。【03~04、13~17年担当=今村健人】