行定勲監督(49)が22日、都内で初エッセー集「きょうも映画作りはつづく」(KADOKAWA)発売記念トーク&サイン会を開催した。席上でプロ野球巨人や米大リーグ・ヤンキースなどで活躍し、12年に引退した松井秀喜氏(43)の思い出を語った。

 行定監督は、松井氏が石川・星稜高3年時の1992年(平4)に出場した全国高校野球選手権2回戦・明徳義塾(高知)戦で、同氏が5打席連続敬遠された際、テレビ朝日系「熱投甲子園」の番組ディレクターとして取材していた。「ゴジラ松井が行く」という特集で師匠・林海象監督から初のディレクターを任された、いわば“初監督”を務めたと言える現場で高校野球史に残る騒動が起きた。

 行定監督は野球部長から、敗戦後の松井氏の取材について<1>最後の合宿所の夕食<2>六甲山に野球部で思い出を作りに行くところの、二者択一を迫られ、松井氏の笑顔を撮りたいと思い六甲山を選んだ。その後、同席を許された夕食で、松井氏がチームメートを前に「(5打席20球で)バットを1回も振らなかったのは、お前らがいたからだ」などとスピーチしたのを聞き、思わずもらい泣きしつつも「何でこれを撮らなかったんだろう」と悔恨の思いも湧いたという。

 その後、六甲山で取材した際、松井氏が「すごい笑顔で手を振ってくれた」(行定監督)姿を撮ることができ、それが番組の最後に使われた。放送後、「あんなに大変だった松井君が、ああいう英顔をした、すがすがしさが見られて良かった」などと反響のファクスが大量に届いたという。野球部長からも「高校生らしい姿を押さえてくれてありがとう」と感謝の電話がきて、翌日に松井氏のインタビューを組んでくれ、その際に同氏はスピーチと同じ内容を語ったという。

 行定監督は、松井氏が引退を発表した際に、そのことをつづり、その原稿は「きょうも-」にも収められた。トークでも、自身の映画監督人生に大きな影響を与えた出来事だと語った。

 行定監督 観客をないがしろにする映画作りもあるんだけど、そうじゃなくて、観客=作品が届く人の顔を、ちゃんと考えて映画を作るか、ということを学んだ。松井秀喜が感動的なスピーチをしたようなことを、映画の場合でも組み込もうか、組み込まないかと、いつも思う。そこじゃなくて、自分が本当に届けたかったのは、彼が(スピーチで)1回もバットを振れなかったのを説明したのを省き、六甲山で見せた笑顔。あんなに大変な松井君の、最後の笑顔が良かったと視聴者も感動した。当時の経験は、映画を作りと似ている。1本の映画を撮るような選択を迫られてやった経験は心の中に残っている。

 「きょうも-」は01年から03年、07年から現在までの13年間、地元・熊本のタウン情報誌「タンクマ」に月1回、連載されたコラム「映画のある生活」をまとめたもの。上京し、映画監督となり、映画作りと格闘する日々をつづった。連載開始当時は代表作の1つ「GO」を撮っていた。この日、トークを行った高良健吾(29)は連載開始当初「タンクマ」で高校生スタッフとして働いていたという。【村上幸将】