倒産危機にあった日産自動車をV字回復させたカルロス・ゴーン被告(64)の逮捕から2カ月あまり-。「コストカッター」の異名をとった前会長は2004年(平16)に村山工場(東京・武蔵村山市、立川市)など国内3工場を全面閉鎖するなど、大なたをふるった。かつて主力だった工場跡地は今、荒涼とした光景が広がる。V字回復の裏で消えた、「日産の町」を歩いた。【大上悟】

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工場跡地の東側を走る都道55号は「日産通り」と呼ばれた。かつては東京ドーム約30個分の広大な敷地に並んだ大工場群が夕日を遮っていた。消滅した今は、冬の太陽が目に刺さる。最盛期には3000人以上で3交代制でフル稼働した。周辺には日産車と工場勤務者、関係者が行き交った。あの当時の熱気をしのぶものは何もない。

75年に「理容キング」を工場の正門近くにオープンした川田弘さん(72)は「従業員や関係者が朝から来てくれた。あんな大きな工場がなくなるとは思わなかった」と、振り返る。周辺にはさまざまな店舗が軒を並べた。「飲食店だけでも60軒はあった。みんな(工場の)恩恵を受けた。うちを入れて残ったのは6軒だけ」と川田さんは視線を遠くに移した。閉店したスナックや空き店舗の外壁は朽ち始めていた。

村山工場には縁がある。日刊スポーツは自転車ロードレース大会「ツール・ド・ジャパンシリーズ」を主催した。88年6月19日、日産村山ステージは工場内で行われ、1周2・5キロの特設コースを1557人の選手が疾走し、入社3年目の記者は取材した。「仲間たちと工場内で練習するのが楽しみ」と自転車同好会のベテラン従業員は笑った。後に1周約4・25キロのテストコースを特別にスカイラインで試走させてもらった。バンク上部をアクセル全開で走行すると街並みが、いきなり視界に飛び込んで来て驚いた。

敷地は武蔵村山と立川の両市にまたがり、大半の工場関係者の生活圏は立川市内だった。「夜勤明けは競輪だね」と若いエンジニアは笑った。立川競輪場は格好のオアシスだった。閉鎖発表の99年度は77億円を売り上げ、累計入場者は約89万人を誇ったが、完全閉鎖した翌05年度の売り上げは約41億円、累計入場者は約47万人と激減した。「当時の公用車はすべて日産車だった」(立川市役所職員)。工場の消滅は地域経済にも暗い影を落とした。

全面閉鎖で最終的に当時の従業員2400人のうち1930人が栃木工場などへ異動。「470人が退職した」(日産広報部)。多くが単身赴任となり、異動後に退職した者もいる。特別背任などの容疑で勾留中のゴーン被告は、海外法人から約10億円の不正報酬を受けるなど億単位の私的流用容疑が次々に明るみとなっている。「望んで異動した者はいないでしょう。やり切れない思い」と60代の元社員は深いため息をついた。

「リバイバルプラン」というコストカット、資産売却の嵐でゴーン氏は日産を危機から救った。一方で涙をのんだ労働者がいたことも事実だ。跡地北側に「プリンスの丘公園」が、ひっそりとたたずむ。車で探したが何度も通り過ぎてしまった。「スカイラインGT-R発祥の地」のモニュメントが村山工場が存在したことを示す唯一のものかも知れない。肌を刺すような北風が荒涼とした工場跡地を吹き抜けている。

◆日産リバイバルプラン 99年10月にゴーンCOO(当時)が発表した再建計画。主な内容は村山工場など3カ所の車両組立工場、部品工場2カ所を閉鎖、全世界でグループ2万1000人の人員削減、下請け企業1145社を600社以下に減らし、子会社・関連会社1400社のうち、基幹4社を除き、会社の保有株式を売却など。業績を回復させ、黒字化に成功し、03年までの4年間で約2兆1000億円の巨額負債の完済を達成した。

◆日産自動車村山工場 1962年(昭37)10月にプリンス自動車工業の主力工場として操業を開始。グロリアやスカイラインなどを生産した。66年8月に日産自動車との合併で日産自動車の生産拠点に。99年に閉鎖方針が決定して以降、工場は縮小され、04年に完全閉鎖した。所在地は東京都武蔵村山市榎1の1。敷地面積は約139万平方メートル。