言葉が分からなくても大丈夫―。今や全世界で当たり前の「ピクトグラム」は1964年(昭39)の東京五輪で初めて全面導入された。現在のトイレマークはまさに、東京五輪をきっかけに世界標準になった。旧赤坂離宮(迎賓館)の地下で11人のクリエーターが数カ月、手弁当だけで試行錯誤し生まれた「絵文字標識」。最年少だった版画家の原田維夫さん(78)が当時の熱気を語った。

64年東京五輪のピクトグラム制作に関わった原田維夫氏
64年東京五輪のピクトグラム制作に関わった原田維夫氏

横尾忠則ら若手クリエーター11人


 真夏の熱帯夜、元赤坂の木々からセミの鳴き声が聞こえる。64年東京五輪組織委員会があった旧赤坂離宮の地下会議室に下りると、有名デザイナーの先輩たちが、王宮のような豪華なイスに座り、円卓を囲んでいた。

 後に無印良品のトータルデザインなどを手がけたグラフィックデザイナー田中一光(02年に71歳で死去)、後の世界的美術家・横尾忠則(80)らそうそうたるメンバー。デザイン評論家・勝見勝(83年に74歳で死去)が自ら電話で声を掛けた、若手クリエーター11人だった。

 円卓には大量のわら半紙と鉛筆約30本が置かれていた。「さあ今日は電話を考えてくれ」と勝見が号令をかける。11人はそれぞれ、デッサンを開始。原田は受話器が垂れている絵を描いた。ああでもない、こうでもないと議論の末、黒電話が採用された。


 一番苦労したのがトイレ。男女それぞれの図柄が必要だった。「漢字も英語も分からない、どこの人が見ても分かるようにしてくれ。アフリカの人でもだぞ」というのが勝見の指示。原田はトイプードルを描いた。男子便所には足を上げて用を足している図柄、女子便所は座っている図柄にした。他のメンバーも悩んだ。「とぐろを巻いたうんち」の絵も飛び出た。

 選ばれたのは「ズボンをはいた人・スカートをはいた人のシルエット」だった。よく見れば「ただの男女」だが「田中一光さんが描いたんです」と原田。今や世界共通でトイレと分かるピクトグラムが生まれた瞬間だった。

 64年6月に招集され約3カ月間、多いときは週3回ほど集まった。仕事後の午後7時ごろから旧赤坂離宮の地下で絵を描いた。当時「施設シンボル」と呼んだピクトグラムは全部で39種類となり、選手村などで使われた。

 交通費は出ず、1回の会議に弁当1つ。五輪のチケットすら、もらえなかった。それでも「日の丸を背負っている感じがして、うれしかった。少し、今とは違うかもね」。最年少の25歳だった若者は、敗戦から立ち上がる国家の大事業に関わり、誇りに満ちていた。

トイレのピクトグラム
トイレのピクトグラム

デザイン界ルネサンス

 まさに日本デザイン界の「ルネサンス期」。59年に広告制作会社「日本デザインセンター」が創業し、日の丸を力強くデザインした64年東京五輪のエンブレムを生んだ亀倉雄策らが所属していた。そこに原田もいた。

 しかし東京五輪直前、会社の同僚だった横尾とグラフィックデザイナー宇野亜喜良(83)とともに独立。64年にイラストレーション会社「イルフィル」を立ち上げた。デザインセンターを辞めた時の社長が亀倉だった。

 辞表を持って行くと亀倉が「おまえらいいな。俺には仕事が来ない。社員が会議してその前に止めちゃうんだ」と笑った。そして「何かあったら助けてやるから」と激励を受けた。原田は「うれしかった。後に五輪のピクトグラムの仕事が来たけど、亀倉さんが勝見さんに相談してくれたんじゃないかな」。

 原田の母校、多摩美大の同級生にはファッションデザイナー三宅一生(79)、日本橋にあった白木屋百貨店でのDM制作のアルバイト仲間には写真家・篠山紀信(76)がいた。あの熱気から56年後の20年東京大会はわずか3年後だ。


おもてなし心を込めて

 「今はスマホなどにデータで簡単に情報が入ってくる。でもね、情報を示す図柄は必要になってくると思う。ピクトグラムの誕生は今考えると『おもてなし』の心だった。2020年もそうあってほしい」。

 勝見が「社会に還元しよう」と著作権を放棄したことで世界に広まった。弁当、わら半紙、鉛筆だけで世界を変えたあの閃光(せんこう)のような日々が、再び東京にやって来るだろうか。(敬称略)

【三須一紀】

64年東京五輪のピクトグラム
64年東京五輪のピクトグラム

20年大会は64年大会デザインの継承も検討

3年後は?ブランドディレクター遠藤純二郎氏に聞く


 2020年東京五輪・パラリンピックでのピクトグラムはどうなるのか。大会組織委員会のブランドディレクター遠藤純二郎氏(58)に聞くと、全体の装飾計画とデザインの統一性を持たせる方向で検討しているという。

 64年東京大会では施設と競技、2種類のピクトグラムが生まれた。しかし今回は施設表示などに関しては国交省国土地理院が外国人向け地図記号を開発しているため、組織委がデザインするのは競技ピクトグラムのみとなる方向。

 遠藤氏は98年冬季長野五輪で入賞メダルのデザインに関わるなど、トータルデザインを担当し、ピクトグラムにも関わった経験がある。長野大会のエンブレムは冬季競技をモチーフにした人柄で5色の花びらを表現した。競技ピクトグラムもエンブレムのデザインと統一性を持たせた。

 64年大会以降、ピクトグラムのデザインは独立していたが、92年バルセロナ五輪からエンブレムデザインとの統一性が保たれていった。96年アトランタ五輪は「近代五輪100年」という記念大会だったため古代五輪を表した具象的なデザインが使われた。このように92年以降は、大会デザインの一部という大きな意味合いを持つようになった。

 2020年大会について「エンブレムデザインを利用するのか」と聞くと「それは難しいのでは」と遠藤氏。野老朝雄氏が作ったエンブレムは単純な四角形の集合体のため、競技を表す人型ピクトグラムに落とし込むのは困難だという。そのためピクトグラムは「ルック」と呼ばれ、競技会場や街中を装飾する幕やボードのデザインと統一性を持たそうと検討している。

 エンブレムやマスコットは国際オリンピック委員会、国際パラリンピック委員会の承認を得れば良いが、ピクトグラムは各国際競技団体の許可も必要で「こんな競技ポーズはありえない」などと注意されることが頻繁にあり、難作業が予想される。

 五輪ピクトグラムの発祥である64年東京大会の継承について「なかなか難しいが、皆さんが求めていると思う」と周囲の期待を背負い、2020年大会バージョンの検討を始めている。

過去3大会のピクトグラム
過去3大会のピクトグラム

アテネは古代ギリシャ像北京は甲骨文字「篆書体」ロンドンは地下鉄版も

 ◆過去の五輪ピクトグラム 00年シドニー大会ではオーストラリアの先住民アボリジニが使用していたブーメランをモチーフにした大会エンブレムと統一感を持たせた。04年アテネ大会は古代ギリシャのキクラデス文明の像をモチーフにした。08年北京大会は古代中国で使用していた甲骨文字「篆書(てんしょ)体」を元にしてデザイン。12年ロンドン大会は通常のシルエット版以外にもう1種類あり、それはロンドン地下鉄の路線図をイメージした。16年リオデジャネイロ大会はリオ市の景観の曲線をイメージし、作成された。


64年東京五輪施設のシンボルとしてつくられたピクトグラムの数々。一目瞭然のものが多いが、「?」なものも…。あなたは全部分かりますか?

※答えは最後にあります

ピクトグラム クイズ1
ピクトグラム クイズ1
ピクトグラム クイズ2
ピクトグラム クイズ2

◆ピクトグラム答え

(1)更衣室

(2)シャワー

(3)サウナ

(4)浴室

(5)洗濯室

(6)選手村

(7)プログラム売り場

(8)当日券

(9)役員

(10)プレス

(11)男子選手

(12)女子選手

(13)団体

(14)観客

(15)インタビュールーム

(16)面会所

(17)救護室

(18)医務室

(19)入り口・出口

(20)案内所

(21)警察

(22)郵便局

(23)電話

(24)一時預かり

(25)銀行

(26)軽食堂

(27)食堂

(28)水飲み場

(29)ショッピングセンター

(30)バンド

(31)記録映画

(32)劇場

(33)バス

(34)自転車置き場


(2017年5月3日付本紙掲載)

【注】年齢、記録などは本紙掲載時。