穏やかな表情でピッチを見つめる東京23FCの羽中田昌監督
穏やかな表情でピッチを見つめる東京23FCの羽中田昌監督

 車いすの監督は、いつも泰然自若としている。関東1部リーグで昨季王者の東京23FC、率いるのは羽中田昌さん(52)だ。

 試合中、大きな声を張り上げることもなければ、選手を叱咤することもない。ジャッジに憤慨することもない。いつも穏やかな表情で、静かに戦況を見守っている。勝っても負けても、一喜一憂しない。

 悔しくないんですか?

 そんな意地悪な質問に「そりゃ悔しいですよ」。そして「ここからどう立ち直るか、それが大事なんです」。常に選手の気持ちに寄り添い、闘っている。

 その羽中田さんは2006年9月、車いすの障がい者として日本サッカー史上初めてS級指導者ライセンスを取得した人物である。山梨・韮崎高時代にFWとして全国選手権で2度の準優勝に輝き、日本ユース代表候補にも入った名選手だった。だが腎臓病を患い、浪人生活を余儀なくされた。そこへ不運が重なる。19歳の時、今度はバイク事故で半身不随となった。

 「何で俺ばっかり…」。

 先の見えない絶望感にうちひしがれた。自暴自棄にもなった。サッカー選手を目指した若者には、背負い切れない現実。そこから気持ちに整理をつけ、社会復帰を果たすまでには長い歳月がかかった。Jリーグが開幕した1993年8月、国立競技場で試合を目の当たりにし、消えていた希望の火が心の中に再びともった。指導者としてサッカーの世界で生きることを決意。96年、妻まゆみさんを連れ添ってバルセロナへ渡り、止まっていた自分の人生を再び取り戻した。

旭戦でドリブル突破からゴールを決める韮崎FW羽中田昌(右)(撮影は1983年1月4日)
旭戦でドリブル突破からゴールを決める韮崎FW羽中田昌(右)(撮影は1983年1月4日)

 プロ監督となってからの羽中田さんは、U-17(17歳以下)日本代表コーチ、当時四国リーグだったカマタマーレ讃岐、関西1部リーグの奈良クラブを経て、15年から東京23FCの指揮を執る。「美しく勝て」の言葉を残したスーパースター、ヨハン・クライフに心酔し、5年に及ぶスペイン留学で見続けたバルセロナのサッカーに傾倒。ポゼッションスタイルを指向し、戦術を練り込む指導者だった。だが思い描くような結果にはつながらなかった。S級取得から10年を迎え、さまざまな勝ち負けを重ねる中で変化が訪れた。

 「選手が主役であり、選手が戦術なんです。選手を見て、サッカースタイル、チームスタイルをつくっていく。前は、自分の理想とするものに当てはめていた。だけど選手の力が一番出るようにプレーモデルを考える。海外を見ても、そういう流れになっている。相手もいることだし、自分たちの選手がどう生きるのか。(マンチェスターCの)グアルディオラも『選手が戦術だ』と言ってるように」。

 口をついて出たのは、かつてバルセロナで新たな黄金期を築いた名将グアルディオラの名前。その自叙伝が日本で販売されるにあたり、出版社の依頼を受けて夫婦で翻訳に取り組んだ。そんな経験も影響したであろうが、ここにきて監督という仕事の本質を得た、というところなのだろう。チーム練習でも指導はもっぱらコーチに委ね、「選手を観察することが大事」と脇役に徹する。

 昨季、東京23FCは関東リーグを制したが、日本フットボールリーグ(JFL)への昇格をかけた戦いに敗れた。仕切り直しとなったシーズンだが、気負いはない。「ディフェンディングチャンピオンと言っても、紙一重。微差です。周りも強くなっているし、毎年ゼロからのスタート、難しいリーグだと思います。チャレンジャーとして今後どう戦えるか」。謙虚な言葉を重ねた上で、こうも言った

 「選手を愛せるか」

 シンプルだが、サッカー指導者としてのエッセンスを感じ入るひと言だった。人生の紆余(うよ)曲折を経て今に至るだけに、何とも重みがある。この言葉を聞いて、ピッチで見せる泰然自若とした立ち居振る舞いに納得した。【佐藤隆志】


◆出版 羽中田監督の波瀾万丈の人生を描いた「必ず愛は勝つ! 車イスサッカー監督 羽中田昌の挑戦」(講談社)が今月末に出版される。