鉛色の空から間断なく、雨が落ちる。6月18日、BMWスタジアム平塚で行われた神奈川県高校総体サッカー決勝は白熱していた。その決勝を戦う日大藤沢のベンチ後方の離れた場所から、目深にニット帽を被った少年が静かに試合の行方を見守っていた。

 東海大相模との一戦は後半23分に試合が動いた。東海大相模が得たPK、そのキックはGK竹内暢希選手(3年)がいったんセーブするが、ルーズボールとなったところを押し込まれ、先制された。日大藤沢も残り5分を切った同36分(40分ハーフ)、左サイドからのクロスボールをMF梶山かえで選手(2年)が頭で押し込み同点。しかしアディショナルタイムの同43分、FKを起点に東海大相模FW井上蔵馬選手(3年)に鮮やかな右足ボレーを決められ、1-2と敗れた。

 試合終了のホイッスルに、日大藤沢のメンバーはピッチに倒れ込み、立ち上がれない。前日の準決勝に勝利した時点で、上位2校に与えられるインターハイ切符は獲得している。あえて言うなら順位決定戦である。それが、まるで高校最後の選手権に敗れたチームのような悔しがり方だった。「紙一重でした」。そう振り返った佐藤輝勝監督は、こうも話した。「勝ちきることに執着しました」。その言葉の裏には、サポートスタッフとしてチームに同行するニット帽の少年、病魔と闘う柴田晋太朗君(3年)への思いがあった。


試合後のあいさつを終えて引き上げる日大藤沢の柴田晋太朗君(右端)
試合後のあいさつを終えて引き上げる日大藤沢の柴田晋太朗君(右端)

■昨年8月、右肩に突然起きた痛み

 異変が起きたのは昨年8月。柴田君は右肩に違和感を覚えた。神奈川U-17(17歳以下)選抜メンバーとして韓国遠征に参加した後、痛みが限界に達した。精密検査を受けたところ、骨のがん「骨肉腫」と診断された。以来10カ月間、辛い闘病生活を送ってきた。今大会直前の5月に抗がん剤治療が一区切りとなったことで、ようやくチームに合流。6月4日の川和戦からサポートスタッフとして、チームに同行するようになった。「晋太朗を全国に連れて行こう」がチームの合言葉となった。決して下馬評は高くなかったチームは一戦ごとにまとまり、見事に全国切符を勝ち取った。

 柴田君は小学生で横浜F・マリノス・プライマリーに所属し、中学では神奈川県有数の強豪、FC厚木ジュニアユース・ドリームスでプレーした。実際、中学時代のプレーを生で見たことがある。10番を背負うレフティー。長短の正確なパスでゲームをコントロールし、自らゴールも奪ってしまう。まるで「中村俊輔のよう」な創造性あふれるファンタジスタだった。その華麗な姿が脳裏に残っていただけに、こんな形で出会うことになるとは思わなかった。佐藤監督の許可を得て、柴田君に話を聞いた。

    ◇    ◇

 -とても辛かったと思いますが、こうして帰ってこられたことをどう思いますか?

 「気持ち的にはやっぱり、3年生を含め、監督が『日本一になってやるから絶対に帰ってこい』って、本当に心の底からそう思っていってくれたので、僕もその期待に応えなきゃいけないなと思って。その早く復帰してやるという一心だけで治療を乗り越えてきました」

 -いろんな夢を持ってサッカーに打ち込んでいる中、肩がこういうことになった。最初はどういう思いでしたか?

 「主治医と話をしているときに、病気のことについて言われてもよく分からないので、最後に『サッカーはできるのですか』って聞きました。そこで『サッカーはできる』って聞いたので『じゃあ、自分は全力で治療を頑張って、早く復帰すればいいや』と思いました。へこんでいる場合じゃないというか、もうへこむ前に自分でやることあるだろ、って言い聞かせて、ひたすら真っすぐ後ろを向かずに、貪欲に毎日前へ進んできたつもりです」

 -でもボールを蹴ることができないというつらさは相当だったでしょ? これだけ長い時間だけに

 「確かにサッカーできないというのはつらかったですけど、逆に普段サッカーに打ち込み過ぎていたので、自分がすることがなかった読書だったり、すごくサッカーの試合を見るとか、違った視点から自分にプラスになることを考えて、取り入れようと思って。そういう面では本当にいい時間が過ごせたなと、逆に思います」

 とても18歳の言葉とは思えなかった。もちろん病気への不安や恐怖は大きいだろう。しかし、今起きていることを冷静に理解し、気持ちを整理するとともに、しっかり未来へと目を向けた。周囲のさまざまなサポートがあってのことだろう。それでも自らの言葉でしっかりと伝えようとする、その心の強さに驚きを覚えた。

 「そこで本当に落ち込んでこの先つらいなって思うより、この時間だからこそ自分にできる何かを見つけ、それをサッカーに取り入れて、復帰した時に前の自分よりも、強い自分でいられるようなことをしようと。一から見直したというか、ゼロから見直した感じです」


試合後、仲間と肩を組む柴田晋太朗君(左)
試合後、仲間と肩を組む柴田晋太朗君(左)

■中村俊輔と病室でのサッカー談義

 一般的に骨肉腫の場合、患部を切除する治療法がよく知られている。しかし、柴田君の夢はプロサッカー選手。そのため肩の筋肉を残しての手術を選択した。その後の抗がん剤治療も、早く高校サッカーに戻りたいという強い思いから、通常よりも間隔を詰めて行ったという。体への負担は大きかったことだろう。入退院の繰り返しで、学校にもまったく通えなくなった。そんな時「世界一の憧れ」という、ある選手が病院をたずねてきた。あの中村俊輔選手(現ジュビロ磐田)だった。昨年11月、知人を介して夢のお見舞いが実現した。そんな二人には面識があった。

 「僕が(横浜F・マリノス・プライマリーに所属した)小4とか小5の時に(スペイン1部の)エスパニョールから戻ってきた。プライマリーの練習場とか来てくれて、ボール回しとか一緒にやって、そこで顔を合わせていました。それで僕のお見舞いに来てくれた時も『そう言えば』みたいな」

 -病室ではどんな話をしたのですか?

 「最初、僕がちょっと震えすぎて話せなかったですけど。僕は(高校の)1年生でも2年生でもトップチームでやらせてもらっていたんですけど、全然試合に使ってもらえなかったり、Bチームに落とされた時とかあって。そういう思うように進まない高校生活で、俊輔選手も中学時代に自分が、周りが何をしたいかってことに気づけずに、年下の人にポジションを奪われて、サッカーがうまくやれてなかったという時代を振り返ってくれて、そこが僕に似ているなって思いながら。『そこ似てるよね』って感じで話してくれて。それで僕、俊輔選手がすごい憧れなんでフリーキックを聞いてみたんです。フリーキックでいろんな話をしてくれて、テレビで言わないこととか。結構、奥深くまで聞いてみました」

 時がたつのも忘れ、病室でのサッカー談議は長時間に及んだ。それは何よりも、未来へ目を向ける活力になった。柴田君は目を少し輝かせ、こう付け加えた。

 「本当に一生の宝物になるような」

    ◇    ◇

 ついついインタビューに熱が入った。競技場の照明が落ち、周囲は闇に包まれていた。引き留めたことをわび、スタジアムの正面玄関から外へ出た。すると目の前に日大藤沢のサッカー部員とスタッフ、保護者ら優に200人を超える仲間が、拍手とともに柴田君を待ち構えていた。闘病生活から戻り、サポートスタッフとしてチームを支えてくれたことへの感謝とエール。思わぬサプライズに柴田君は驚きの表情を隠せない。何とも感動的な場面だった。

 2年半前の冬の全国選手権で4強入りした日大藤沢は、今度は日本一を目指して7月28日から宮城県で始まるインターハイに臨む。佐藤監督は、サポートスタッフとして再び柴田君の同行を望んでいるが「主治医の先生がどう判断するか。親御さんからも無理はさせないでくれと言われています」。そんな現状を踏まえれば、プレーできるようになるのは、まだ先になるだろう。それでも柴田君の視線はぶれない。夢を尋ねると、こう返ってきた。

 「僕の将来の夢はサッカーのプレーヤーとして、世界で活躍して、大きな絶望とか、大きな挫折をした人たちの希望の光となる選手になりたいなと思っています。本当にそういう存在になるためにも自分に妥協せず、この先頑張っていかないと、やっぱり競争が激しいチームなので、将来も含めてここでしっかり土台をつくることが、自分の将来につながっていくし、日大藤沢の将来にもつながっていくと思います。しっかり自分の道はぶらさず、突き進んでいきたいと思います」

 まっすぐこちらを見据え、そう話す目には一点の曇りもなかった。過去は振り返らず、未来を信じている。彼は既に病魔に打ち勝っているのかもしれない。そう思った。

 今回の柴田君の闘いは、彼だけのものではないだろう。その頑張る姿が、さまざまな苦境でくじけそうになっている人々への強いメッセージともなってくる。だらかこそ、再びピッチに立つ“その日”を楽しみに待ちたい。

【佐藤隆志】(ニッカンスポーツ・コム/サッカーコラム「サカバカ日誌」)


試合後、記念撮影する優勝した東海大相模と準優勝の日大藤沢メンバー。中列左から3人目が柴田君
試合後、記念撮影する優勝した東海大相模と準優勝の日大藤沢メンバー。中列左から3人目が柴田君