今春、神奈川・日大藤沢高を卒業した柴田晋太朗君が、2年に及ぶがんとの闘病生活に区切りをつけた。

「ようやく長い治療が終わりました。とっても濃い人生を送ったと思います」

安堵(あんど)の表情だった。今後は定期的に経過観察を続けていく。「よかった、これで安心して…」。何げなくそう言うと、隣りで聞いていた柴田君の母は「でも、がんサバイバーに安心はないですよ。これから先、ずっと(再発の)怖さを抱えて生きていくことになりますから」。ズシリと心にかかる言葉だった。

がん治療を終えた柴田君(中央)を祝福する高校時代の仲間たち
がん治療を終えた柴田君(中央)を祝福する高校時代の仲間たち

■今年5月に肺切除の手術

柴田君のことは昨年6月から取材を続け、前回は3月に紹介している。

「がんと闘うファンタジスタ、たった1人の卒業式」

あらためてその経緯に触れておくと、プロサッカー選手を目指していた柴田君は、2016年8月下旬、神奈川県U-17選抜の主将として参加した韓国遠征後、右肩の激痛でかかりつけの整形外科へ。精密検査の結果、骨のがん「骨肉種」だと診断された。そこから始まった闘病生活。右上腕骨を人工骨に置換する手術を受け、その後の抗がん剤治療を経て闘病生活にピリオドを打った、はずだった。だが昨年8月下旬、新たに肺へのがんの転移が見つかり再び治療を開始。それでも自らの強い意思でサッカー部の活動に参加し、公式戦にも出場した。その姿はテレビにも取り上げられ、話題となった。

ことし3月7日、1人だけの卒業式に臨み、その翌日から再び入院生活へ。5月14日、肺の手術に踏み切った。左の上葉は全切除、右の下葉は部分切除した。

8月中旬、幸いCT(コンピューター断層)検査でがんの転移は認められなかった。ようやくすべての治療を終え、9月4日に退院となった。

この2年間で手術が2回、1クール3~4週間にも及ぶ抗がん剤治療を21クールも受けた。そのたびに副作用に襲われた。また、抗がん剤治療中にアナフィラキーショックを起こしたこともあった。振り返ってみれば、なんとも苦しく、長い道のりだった。

命と引き換えに大事な体の機能が失われた。右肩に人工関節が入り、右腕は上がらなくなった。サッカー選手として人並み外れた心肺機能を誇っていたが、その肺は切除され、小さくなった。今回がんの治療にピリオドを打つに当たり、ツイッターにこう記した。

「転移発見から1年の治療の末、治療に別れを告げることが出来ました。この一年は命と向き合い命の大切さ。治療が出来る喜び。闘病を共に頑張ってきた子が旅立ってしまった悲しみ。色んな事を実感した。生きていることが当たり前じゃない。明日があるなんて保証はない。常に前向きで全力で生きていく。」(原文のまま)

自分は生かされた-、その思いが強い。退院するにあたり、柴田君がこう話してくれた。

「色々な人の支えがあって僕は今生きている。でも、まだこの病気に苦しんでいる人は多くいます。でも病気のことは世間ではあまり知られていない。みんなを何とかしてあげたいし、僕は自ら声を上げ、何かを発信し続けることで、世間との架け橋になりたいんです」

サッカーボールを手に
サッカーボールを手に

■100万人に1人の希少ガン

今や2人に1人の国民病と言われるがんだが、骨肉腫は100万人に1人という「希少がん」である。さらに同じ「骨肉腫」にしても、症状がそれぞれ異なるという多様性を持つやっかいな病気だ。特効薬などない。現代医療の進歩は目覚ましいが、骨肉腫は患者数の少なさもあって国からの研究費がうまく落ちず、ここ20年これといった新薬が出ていないとも聞く。患者家族は閉塞(へいそく)感の中で悩みを抱え、苦しんでいる。だからこそ「懸け橋になりたい」のだ。

柴田君は長期に渡る闘病で心掛けたことがあった。入院生活を「楽しむ」ことだった。同じ骨肉腫で闘病する同年代の若者に積極的に声をかけ、共有スペースのデイルームに誘った。みんなでテーブルを囲み、オセロやカードゲームをワイワイと楽しんだ。ワールドカップ(W杯)期間中には、深夜にもかかわらず、サッカーをテレビ観戦した。

「病気でずっと落ち込んでいたうちの子が、初めて笑顔を見せてくれました」。そんな言葉をかけられ、感謝もされた。

柴田君は言う。「この病気は1人で乗り越えるのは厳しい。みんなで楽しんで、バカを言って。そうやらなきゃ、やってられないですよ」。

下は小学生から上は20代、30代もいる。先の見えない生活に気持ちが落ち込みそうになった時、まるでサッカー部の時のように「チーム」として励まし合った。先述したツイッターでつぶやいていたように、柴田君には悲しい別れもあった。5月、弟のように可愛がった「アキラ君」が、わずか11年という短い生涯を閉じた。自らの手術日の4日前、突然の出来事だった。そのアキラ君の父が後日、柴田君の母に涙ながらにこう明かした。

「晋太朗君が、アキラの“メイク・ア・ウィッシュ”だった!」

「メイク・ア・ウィッシュ」とは、難病の子供たちに夢をかなえるというサポート活動だ。希望や喜び、生きる糧が病気に打ち克つ大きな力となってくる。いつも前向きで、自らも病気なのに周囲を励ます柴田君の姿こそ、アキラ君の未来を照らす灯火だった。

「メイク・ア・ウィッシュ」。その言葉が今も柴田君の胸に突き刺さる。

「もちろんサッカーのトレーニングは続けていくし、プロサッカー選手になるという夢もあります。でも今は色んな人に会って、色んなことを学びたい。そして将来、みんなのために生きていきたい」

笹の葉に短冊、願いを
笹の葉に短冊、願いを

■「取り巻く環境を変えたい」

七夕の日、闘病患者が願いごとを院内の笹の枝につるした。そこに柴田君の言葉もあった。

世界中の人に「感動と希望」を与える人間になる-。

9月4日に退院した後、さっそく精力的に動いている。今度は“健常者”として病院を訪れ、闘病仲間を励ましている。柴田君は闘病中、自立への一歩として車の免許を取った。自らハンドルを握り移動することで、行動範囲はグンと広がった。先日は母校の日大藤沢高サッカー部を訪れ、選手権予選の壮行会にサプライズゲストとして登場。後輩たちに自らの闘病経験を語り、自分を信じること、ひた向きに取り組むことの重要性を伝えた。

そして、がんをテーマにしたシンポジウムなどへの参加を希望している。治療を通して家族のように信頼する主治医の先生には、自らの意思を伝えている。

「僕が人前に出て発信することで、この病気を取り巻く環境が少しでも変わればと思っています」

サッカーにかけるはずだった青春時代は失われた。でも2年という歳月は、少年を立派な大人へと変えた。

【佐藤隆志】(ニッカンスポーツ・コム/サッカーコラム「サカバカ日誌」)

お見舞いに訪れた高校時代の仲間
お見舞いに訪れた高校時代の仲間
昔のサッカー仲間と
昔のサッカー仲間と