もう7年も前になる。2011年11月22日、真冬のように冷え込んだ夜。大阪府内のホテル駐車場の木陰に隠れ、西野朗監督を待った。

 10年間指揮を執り続けたガンバ大阪を、離れることが決まる夜だった。当時の金森社長との最後の話し合いを終えると、小走りで車に乗り込み、その場から去った。慌てた私は、先回りをして車の前に立ちふさがった。急ブレーキを踏み、窓を開けると、あきれた顔をした。

 「危うくひくところだったよ」

 つい数分前に来季以降の契約を更新しない旨の通告を受けたばかりだった。ドアを開け、車から降りてくる。行き交う対向車のヘッドライトが、西野監督を照らした。今後について執拗(しつよう)に問う私に「俺は立ち止まったら終わってしまう。性格的に怠け者だからね」と語ったことが忘れられない。当時、オファーのあった浦和レッズとの交渉はまとまらなかったが、G大阪を去った半年後にヴィッセル神戸に渡り、1年のブランクを経て、今度は名古屋グランパスに移った。

 浪人期間中、埼玉県内の自宅を訪ねた。インターホンを鳴らすと「なんだよ。こんなところまで」と面倒くさそうに言いながらも「ちょっと待ってて」と出てきてくれた。まだ昼前だったが、玄関口で目をこすりながら言った。

 「今すぐにでも現場に戻りたいよね。その思いは常に抱き続けている。朝から3試合もビデオを見たよ。いつも、朝から晩までそうしている。勝負勘が鈍るから。映像だと、さすがに目が疲れるね」

 現場へのこだわり、勝負師としてのこだわりは、すさまじかった。遠征の際、宿舎ホテルで複数台あったエレベーターを待った時のこと。隣にいた番記者に、問いかけた。

 「どっちが先に来ると思う?」

 唐突な質問に戸惑っていると、真剣に語り出した。

 「こういうちょっとしたことでも、勝負をするんだよ。サッカーは一瞬の判断で決めないといけないことが試合中にもあるからね。勘は鈍らせてはいけない」

 こんな逸話もある。G大阪在任中、相手チームに退場者が出た試合はPK戦までもつれた。PK戦では選手を同数にしなければいけない。熱い試合だった。興奮していたのだろうか。まさか、西野さんは「藤ケ谷」と指名。GKを外してPK戦をしようとした。慌てたコーチやスタッフが「誰がゴールを守るんですか」と聞いてようやく、われに返ったという。

 G大阪をアジア王者に導き、挑んだ08年12月のクラブワールドカップ準決勝。クリスティアノ・ロナウド(現レアル・マドリード)、ルーニー(現エバートン)らを擁するマンチェスター・ユナイテッドに3-5の激闘を演じても、満足はしなかった。

 「相手を本気にさせた中で、戦うことができなかった。みなさんは面白いと感じたかも知れませんが、私自身は面白いとは思っていない」

 徹底して勝負にこだわる一面と、天然キャラな側面。だからこそ、番記者からは愛された。

 日本代表監督への思いについても、聞いたことがある。「ないと言えばうそになる。だけど海外クラブの監督をやるのも、悪くない。監督も力を付けないといけない」と答えた。待望論は何度かあった。タイミングに恵まれなかったが、本心は、もっと早くに「オールジャパン」を率いたかっただろう。ACミランなど名門クラブを率い、14年ワールドカップ(W杯)ブラジル大会の日本代表監督だったザッケローニ氏から、こう言われていた。

 「クラブの監督は悪くない。選手を毎日、見ることができるじゃないか。うらやましいことだ」

 少なからず、その言葉に救われていた。

 現場を離れて2年。日本代表を率いることが決まった今、監督として脂の乗った時期は過ぎてしまっているのかも知れない。それでも、とことん勝負に徹した男の世界への挑戦を見たい。全盛期を取材した番記者の1人として、心から、そう思っている。【益子浩一】