黛まどか「17文字の詩」タイトルカット



[English]

ふらここに次々灯もる窓明り

 “ふらここ”とは、つまり“ぶらんこ”のこと。真っ青な空の下で漕ぐぶらんこは弾けるような明るさと楽しさでいっぱいですが、夕暮れ時に揺らすぶらんこは、とて も心細くて淋しいものです。

 あたりが少しずつ春の夕闇に包まれてゆく中、一つ、また一つ、家々の窓明かりが灯ってゆきます。公園で遊んでいた子供たちが一人去り、また一人去り……。みんな待つ人のいるあたたかなわが家へ帰ってゆきます。しかし、家族がまだ帰っていないことを知っているのでしょう。その少女だけは、いつまでもぶらんこから離れようとはしません。

 大人になった今でも、だれも待つ人のいない部屋に帰るのは淋しいもの。暗い部屋に一人で帰り、自分で明かりをつけなければならない淋しさを思うと、私も、あの日見た少女のように、いつまでもぶらんこから離れられずにいるのです。

[季語] ふらここ
[季節] 春


しやぼん玉吹いて淋しくなりたくて

 気持ちが春愁に染まってゆくと、なぜだかふっと“淋しい気持ちになってみたい…”と思う瞬間があります。そんなときはきっと、すでになんとなく淋しいのでしょうが、もっと淋しくなりたいと思ってしまうのです。

 しゃぼん玉やぶらんこ、風車など春の季語となっている遊びには、明るさの半面、愁いを含んだ淋しさもあります。七色に輝きながら飛んでいき、とつぜんふっと消えてしまうしゃぼん玉。

 しゃぼん玉を吹きながら親の帰りを一人で待っていた子供のころのように、大人になった今でも、しゃぼん玉を吹くときには、ふっと淋しい気分にとらわれます。しゃぼん玉の向こうに、だれかの訪れを待っているからなのでしょうか。恋しいだれかを見ているからなのでしょうか…?

[季語] しやぼん玉
[季節] 春


晩鐘の春夕焼を拡げをり

 礼拝の刻を告げる晩鐘が鳴り響いています。仕事を終えた村人たちが、精いっぱい美しく装い、次々と教会に集まっています。これから人々は神へ感謝の祈りをささげ、ざんげをして罪を洗い清め、そしてまた明日からの日々を懸命に働いてゆくのです。

 教会の鐘の音は、時には祈りの音であったり、時には鎮魂の音であったり……と、それぞれに意義を伴う特別な音です。その神聖な晩鐘の響きに従うように、どんどん広がっていくバラ色の春夕焼け。そこにはまるで、神様の意思が存在しているかのようにも思えます。

 教会に集う人々を包み込むように春夕焼けが広がってゆきます。神様が守っているように、神様が祝福してくださっているように広がってゆく春夕焼けです。

[季語] 春夕焼
[季節] 春


潮風に頬を打たせて春惜しむ

 海から吹く強い潮風に身をさらし、一人、過ぎ去ろうとしている春を惜しんでいます。潮風に吹かれるまま、髪の乱れも気にせず、打たせたいだけほおを打たせて……。

 春を惜しむということは、同時に春の思い出を惜しむということでもあります。たくさんの草木が芽吹き、花を咲かせた春。そして、親しい人々との別れがあり、かけがえのない出会いがあった春……。そんな春が行ってしまう、新しい季節に変わってゆくという、行く春への愛惜の思いを思いきり潮風にさらし、一日中、存分に潮風に吹かれた後は、リフレッシュした気持ちで新たな季節を迎え、自分の中の新しい一ページを開くのです。

[季語] 春惜しむ
[季節] 春




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