筑川利希也が大会通算50K
東海大相模 最後は三振を狙った。2点リードの9回表2死一、二塁。東海大相模のエース筑川は、3番武内をカウント2―1と追い込んだ。長打を浴びれば同点、の場面。だが「逃げない。直球で勝負だ」と言い聞かせ、外角へ直球を投げ込んだ。自身、通算50個目の三振を奪って試合終了。両腕を突き上げると、ナインがマウンドに駆け寄ってきた。初のセンバツ優勝を成し遂げた瞬間だった。
「目標の全国制覇を達成できた。そんなに調子は良くなかったけど、みんなに助けられました」。お立ち台に上がった筑川の目は光っていた。準決勝まで1試合平均10得点の智弁和歌山打線は、想像していたよりもうまくて強く、最後の最後まで苦しめられた。バックの守りにも助けられたが、11安打を許しながら2点に抑えた投球術が真骨頂。この試合で奪った8三振のうち、走者を背負ってからが4個。精神力の勝利だった。
今治西(愛媛)との1回戦が延長10回6―5サヨナラ勝ち。東洋大姫路(兵庫)との2回戦を3―2で辛勝した3月31日の夜、宿舎で門馬敬治監督(30)の部屋に呼ばれた。「疲れているのは分かる。夏もあるし無理はさせられない。だが、オレはおまえに期待しているし、おまえで乗り切るつもりだ」。口では、「疲れなんて全くない。関東大会の方がよっぽど疲れていた」と強気なところを見せていた。だが、やせ我慢だった。このままでは、もたない。嫌いなマッサージを入念に受けるようにした。睡眠時間を増やし、試合前にはビタミンドリンクを飲んでマウンドに上がった。この姿勢がナインの団結力にもつながった。
グラブに「Practice makes perfect」(習うより慣れろ)と刺しゅうしている。練習の重要性を説いた言葉だ。175センチ、65キロ。決して大きくない体で全国制覇を目標に掲げるには人一倍、練習するしかなかった。
「センバツは通過点。連覇しなくちゃ駄目です。神奈川にはすごいチーム(98年に甲子園春夏連覇した横浜)がありましたから」。初優勝に酔いしれてばかりはいない。筑川には、まだ目標がある。【浅見晶久】
◆大会通算奪三振 筑川が奪った50三振は大会史上でも6番目にランクされる快記録だった。金属バットが導入された1975年(昭和50年)以降では最多。歴代1位は73年に江川卓(作新学院)がマークした60個。以下、30年岸本正治(第一神港商)=54個、58年城戸博(済々黌)=53個、33年楠本保(明石中)=52個、67年吉良修一(津久見)=51個と続く。一昨年の松坂大輔(横浜)は43個だった。
◆筑川利希也(ちくがわ・りきや) 1982年(昭和57年)7月17日、神奈川・相模原市生まれ。小学1年の時、「相南ジュニア」で野球を始め主に内野手。小学5年から投手となり、東林中3年時には全国大会ベスト8。1年夏、県大会準決勝の藤嶺藤沢高に初先発して勝利を挙げる。昨秋の関東大会では4試合を1人で投げ抜き優勝の原動力に。家族は父義治さん(47)母順子さん(46)。175センチ、65キロ。右投げ両打ち。
エース抜きで準優勝「自信ついた」
智弁和歌山 智弁和歌山の春夏通算3度目の全国制覇が、夢に終わった。2―2で迎えた8回裏。保ってきた緊張の糸が切れた。1死二塁から、先発白野が適時打を浴びた。2死二塁となり、今度は遊撃・小関が痛恨のタイムリーエラー。この回2点を失った。高島仁監督(53)は「こんなもんですよ」と、準優勝を振り返った。
昨秋の近畿大会で初戦負けしながら、異例のセンバツ出場が実現。1、2回戦は計34安打29得点で打ち勝った。準々決勝からは、崩壊していた投手陣が踏ん張った。背番号10の白野が完封、12番の中家が公式戦初の完投勝ち。この日も白野が、左ヒジの張りをこらえて8回を投げ切った。エース松本が右ヒジけんしょう炎で抜けた穴を、全員で補い勝ち上がってきた。
主将・堤野は言った。「ここまでこられると思っていなかった。みんな自信がついたと思う」。大会新の101塁打の記録と、部員20人の粘りを見せつけ、晴れやかに甲子園を去る。「夏にまた戻ってきます」。ナインは、力強く雪辱を誓っていた。【村野森】
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