沖縄129万県民悲願ついに
沖縄尚学 決勝戦。甲子園には沖縄尚学ナインが最後の守りについていた。9回表。水戸商最後の打者の打球が力なくセンターに舞い上がる。27個目のアウトを乗せた飛球が松堂のグラブに収まった。沖縄尚学がセンバツ頂点に立った瞬間だった。それはまた沖縄県に優勝旗が初めて渡った瞬間でもあった。センバツ紫紺の大旗を手にした比嘉寿主将は「優勝旗は重かった」と声を震わせた。
16人全員がヒーローだった。2回に先制されたその裏、先頭の打席に比嘉寿が入った。「自分のエラーで失点を許した。だけど、このまま引きずったらダメになる。初球からいこうと思った」と左中間二塁打で出塁し、同点のきっかけをつくった。5回には途中出場の新垣が右中間へ勝ち越しタイムリー三塁打を放った。打席に入った時はベンチからはバントのサインが出ていた。それが1ストライク後「フリー」に変わった。「監督が自分にかけてくれていると感じた」と言った。緊張感が、前向きな積極性で消えていた。 マウンドは背番号「12」の照屋が立っていた。準決勝で212球を投げたエース比嘉公に代わっての先発だった。照屋が甲子園、しかも決勝の大舞台で公式戦初完投勝利と踏ん張るのだ。「今まで下を向くことが多かったが、今日は上を向いていられた」。本番に弱かった欠点を、甲子園決勝で克服した。
129万人、沖縄県民の念願だった。本土復帰以前はパスポートを手に甲子園に出場していた。持ち帰ろうとした甲子園の土も「植物防疫法」で引っ掛かり、帰途のフェリーから、また那覇空港で海に流さなければならなかった。悔し涙は倍増するだけだった。沖縄県代表として、延べで春は21校、夏は31校が甲子園で涙した。「多くの人が応援してくれて心強かった。優勝なんて夢にも思わなかった」。表彰式を終え、比嘉寿が笑った。
栽弘義・沖縄水産監督(57)が土壌をつくり、その教え子の金城孝夫監督(45)が沖縄高校野球の花を開かせた。苦しかった過去にピリオドが打たれた。「優勝は沖縄県民のおかげだと思う。これからは、僕らの時代にします」。エース比嘉公は胸を張った。スタンド大観衆の拍手は、もう判官びいきの、それではなかった。【浦田由紀夫】
金城監督、大旗運んだ
同じ言葉を何度も繰り返した。「実感がない」。沖縄県民悲願の大旗にも沖縄尚学の金城孝夫監督(45)に、喜びはこみあげていなかった。「私なんかが初めて(大旗を)持ち帰っていいのかというのが、率直な気持ちです」の言葉にすべてが凝縮されている。
昨年8月に監督就任した。初さい配の甲子園で優勝という快挙を成し遂げた。「気候の違いはどうにもならない」と、裸で練習するなどのこれまでセンバツに臨む沖縄勢では慣例となっていた寒さ対策練習も捨てた。「試合で違和感がないように」とむしろ厚着で練習させた。指導法も変えた。以前のスパルタをやめた。選手の自主性に任せた。準決勝、決勝では心配した守備の破たんも出たが、ミスにも下を向かない選手たちは、数々のピンチをくぐり抜けていった。
勝利を確信した時、学生時代(豊見城高)の恩師、栽弘義監督(現沖縄水産)の顔が浮かんだ。強豪沖縄の基礎を築いたのも栽監督だった。「戦う以上、グラウンドでは対等だと思っています」は栽監督の教えだった。何事にも物おじしない。「どこが出ても地元では優勝の話になる。それが初めてできた。しかも苦手の春というところに価値がある」。恩師が夏甲子園決勝に2度挑戦し、果たせなかった頂点に立った。恩師を超え、言葉を選んだ。だが地元の期待にこたえた自負も、その言葉に感じ取れた。【高木茂久】
◆金城孝夫(きんじょう・たかお)1953年(昭和28年)11月15日、沖縄県出身。豊見城高時代は二塁手。中京大では学生コーチ。大学卒業後の76年から20年間にわたり、開校したばかりの愛知・弥富高で監督を務める。96年4月に故郷に戻り、沖縄尚学のコーチを2年間務めた後、昨年8月に監督就任。邦子夫人と1男1女。
水戸商・三橋5連投力尽く
水戸商 初めて敗戦を覚悟した。3点のリードを許し、迎えた7回裏。水戸商のエース三橋は沖縄尚学の浜田にソロ本塁打を浴びた。「甘いスライダー。一番いやな場面で打たれました」。三橋にとっては高校初の被弾だった。ベースを回る浜田をじっと目で追っていた。センバツ未勝利だった古豪を初めて決勝まで導いたエースは、この回でマウンドを降りた。
「完敗です。三橋は5連投ですから。よくやった。私にとっては胸いっぱいの準優勝です」。橋本実監督(51)は、完敗で逆にすっきりしたのか、表情に暗さはなかった。1人でマウンドを守ってきたエースの握力は落ちていた。満足な状態ではなかった。4回からはボールの抑えが利かなかった。低めを狙った投球が上ずったところを狙い打たれた。
それでも橋本監督は「心中してもいい」と先発にこだわった。1997年(平成9年)夏の県大会決勝で、腰を痛めていた左腕エース、井川慶投手(19=現阪神)を先発させたときと同じだ。やはり試合には敗れたが、エースで負けるのなら仕方ないと、だれもが納得していた。このチームには夏もあるのだ。
「野球がますます好きになりました」。厳しい練習がつらく、1年の冬に野球をやめようとまで思った三橋が銀メダルを胸に笑った。「気持ちは切り替えた。低めのコントロールとスピードをつけることを課題に夏も来ます」。最高速が120キロに満たないアンダースロー投手は「これが最後じゃない」の橋本監督の言葉に力強くうなずいた。【浅見晶久】
300人サンバ
サンバのリズムに合わせて踊る名物「水商(すいしょう)サンバ」が決勝戦でも観衆の注目を集めた。生徒約300人が、一斉にジャンプするなど派手な応援。引率した井上広教諭(45)は「15、16年ほど前から始めました。自由な踊りで決まりなんてない」と話し、試合後は準優勝ナインに惜しみない拍手を送っていた。
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