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88年カルガリー五輪スピードスケート男子500メートル銅メダリスト黒岩彰氏(40=コクド)は、ドイツ人になるチャンス? があった。同五輪を1年後に控えた冬のある夜、常宿だったドイツ・インツェルのペンション経営者から営業時間をすぎた食堂に呼ばれた。「アキ、ペンションを継いでくれないか?」。子どもに恵まれない夫妻から、養子縁組の話を持ちかけられた。
日本人初の世界スプリント王者として臨んだ84年サラエボ五輪は、金メダルを期待されながら10位に終わった。引退を考えるほど落ち込んだが、再起した。「サラエボで味わった苦しさより、もっと苦しいことを経験したい」。逃げるよりも、自分をより追い込むことを選んだ。86年秋には海外の強豪が集うインツェルに単身修行に出た。日本スケート連盟に反対されたが「除名されてもかまわない」と押し切った。
欧米を転戦し、独学でドイツ語をマスターした黒岩氏は、選手として、人間として大きくなっていた。養子の話はちょうどそのころだった。そして迎えたカルガリー。レース当日、ホテル出発前にはおにぎりとみそ汁を作って食べた。落ち着いていた。惨敗したサラエボと同じ「第4組、アウト」にも動じなかった。弱気だった4年前とはすべてが違っていた。
自己最高記録で銅メダルを獲得したが、黒岩氏は今振り返る。「メダルより、サラエボ五輪以降の4年間に価値があった」。指導者としては長野五輪でひと区切り付け、来年2月には本紙紙面で健筆を振るう。「結果より、その裏側を伝えたい」と新たな挑戦に意気込んでいる。
本紙ではソルトレークシティー五輪に向けた連載を掲載中です。「結果の裏側のドラマを」と話す黒岩氏のように、五輪に挑むアスリートに熱く迫ります。ご期待ください。
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