ムソリーニの力
誇示した大会

ワールド杯エピソード
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 1934年の第2回W杯はムソリーニ総統の下、ファシストが権力を握るイタリアの8都市(ローマ、トリエステ、フィレンツェ、トリノ、ジェノバ、ミラノ、ボローニャ、ナポリ)で開催されました。そしてこの世界選手権は、ファシスト・スポーツの偉大さを誇示する格好の場となったのです。

 名監督ビットリオ・ポッツォの率いるイタリア代表チームは何が何でも勝たねばならず、選手の中にはイタリア系アルゼンチン人で、第1回ウルグアイ大会でアルゼンチン代表選手として準優勝した「イタリアのために死ねる」スーパースターまでいました(当時は、二重国籍者の登録も認められていたのです)。

 ポッツォ監督は選手たちに猛烈に愛国心をたたき込み、厳しい規律、団結心を求め、選手を手足のように使うため、あらゆる策略を用いました。

 ひとつのエピソードがあります。

 仲の悪い二人の選手を合宿所の同じ寝室に押し込めました。二人は抗議したのですが、もちろん無視です。翌朝、監督の二人への言葉は「どうだい、食い合いは終わったかい」でした。

 食い合うわけはありません。人を食った監督への二人の答えは「思ったほど悪いやつではなかった……」。

 イタリアは決勝で巧技のチェコスロバキアに2―1で逆転勝ち、初優勝を成し遂げました。ポッツォ監督の周到なチームづくりは、ムソリーニ総統が得意満面の笑みでジャンピエロ・コンビ主将(GK)に黄金の優勝カップを手渡す儀式で実を結びました。

鈴木 武士・フリーライター


 ◆ベニト・ムソリーニ 1883年、イタリア出身。1919年にファシズム運動を始め、1921年に下院議員に当選。1922年、39歳で首相になる。25年以降、ファシズム体制を築き、独裁的な権力を掌握したが、第2次世界大戦中の45年4月に、パチルザンに捕らえられ、銃殺刑に処せられた。
 ◆鈴木武士(すずき・たけし) 本名・奈良原武士。1937年(昭12)、東京生まれ。61年に共同通信社に入社。運動部記者としてサッカーのW杯などを現地取材。編集委員を経て、97年定年退社。フリーとなりサッカー、つりなどの原稿を執筆。著、編、訳書に「ワールドカップ物語」(ベースボール・マガジン社)、「日本サッカー協会75年史」「ペレ自伝」(講談社)などがある。
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