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第402回    哀川翔  
2004.02.22付紙面より

哀川翔
写真=オールバックの髪型に、胸の開いた黒いシャツ。時折見せる鋭い眼光。「ヤバイ」と思った私は、瞬時に3つのことを肝に銘じた。(1)失礼があってはいけない(2)ストロボを極力使わない(「まぶしいんだよ」と怒鳴られる可能性があったため)(3)できるだけ遠くから撮影する。しかし、それも時間がたつにつれ変わっていった。子供の話をするときに見せるしぐさ。笑顔を見せまいとするそぶり。「もしかして照れ屋なのか?」と感じた。その通り、普段の哀川さんはとってもシャイで普通のお父さんだった。最後には「いい写真撮れた?」と声までかけてくれた。取材後、すっかり哀川ワールドに引き込まれた私はVシネマを3本買った
(撮影・栗山尚久)

アニキと慕われ続け主演映画15年で100本

 生きるか死ぬか。だめなら終わり、という気持ちでいつも演じている。哀川翔(42)。年間300日、現場に立ち、約15年で主演映画が100本になった。「Vシネマの帝王」の異名を持ち、ヤクザ役が多かったが、休日は大好きな絶叫マシンがある遊園地に5人の子供と行く、優しいパパだ。5歳で父を亡くし、体育教師の夢も破れ、俳優の仕事に悩む日々もあった…。しかし、何が起きても向き合う姿勢が真っすぐだから、「アニキ!」と慕われ続けている。


スーツが普段着

 寸分のすきもなく、スーツでビシッと決めているイメージがある。普段着がスーツ。シーズンごとにスーツを10着ずつオーダーしたこともあった。

 「デビューしてから約10年間は、家を出る時はスーツでした。スーツが一番楽だったから。スーツを決めてシャツを決めれば終わりですから。ファッションに特別なこだわりがあるわけじゃない。似合えばいい」。

 眼鏡も100個ぐらいたまった。

 「いいのがあると、おーいいな、と思って買う。いいのがなかなかないんですよ。この前は3〜4年かかったかな、次を見つけるまで」。

 こわもての顔に照れくさそうな笑顔が浮かぶ。「Vシネマの帝王」という異名を持つ。ヤクザやチンピラ役が多く、劇中ではこんなに温かい笑顔にお目にかかれない。だが今回は「子供から70歳すぎの方まで誰でも楽しめる映画を」とつくった。14日公開された主演作100本目の映画「ゼブラーマン」は、意外にも全国公開初作品。完成披露試写会には知人らに声を掛けた。今まで99本の主演映画を撮ったが、暴力シーンのためほとんどがR15(15歳未満)やR18(18歳未満)の指定(鑑賞不適切)にかかった。だから、大声で「映画できたから見に行ってよ」と言えるのは初めてだった。

 「誰でも見られるというくくりにしたんでね。そういう意味も込めまして『ご家族でどうぞ〜』という感じに話を振ったんですね。子供たちも一緒に行きました。『おもしろい』って言ってましたね」。


前向きな物作り

 主演作は100本になるが、根っからの役者ではない。柳葉敏郎らとともに「一世風靡セピア」メンバーとして84年にレコードデビューしたが、89年に解散。デビュー前後に俳優も経験したが「合わないなー、オレには。向いてないなー」と思った。俳優として先輩の柳葉に電話した。

 「芝居の撮影があるんだけど、どうすればいいんだろうねって。柳葉に聞いたら『慣れだよ、慣れ』って言うし。でも慣れてないオレってどうすればいいのって。ま、実際慣れなんですけど(笑い)。慣れたらどうなんだということではなくて、そこに立つ意味を知りたかった」。

 それを88年、TBSドラマ「とんぼ」で共演した長渕剛に教わった。現場に行って覚えたせりふを言うのが俳優、と甘く考えていた。実際はそんなものではなかった。長渕との出会いが、哀川を変えた。

 「こんなに一生懸命やる人がいるんだ。すごいなと。物を作っていくことに対する前向きさを見てしまったこと。これは結構デカかったですよね。それがなかったらスタート地点、自分の主演1本目『鉄砲玉ぴゅ〜』に立てなかった。そこからも試行錯誤が続くんですけど」。


5児と遊園地へ

 これまでの出演作品は160本。そのうち、約15年間に主演映画だけで100本は驚異的なスピードだ。現場には年間300日はいる。数少ないオフの日は釣り、ゴルフ、子供と「目立たない」遊園地に行く。子供に合わせているわけではない。哀川も遊園地が大好きなのだ。

 「人が叫ぶものは全部好き。単純におもしろい。『絶対安全です』と言われて、100メートルから落ちるんだから。乗れない下の子には、悔しかったら飯食って早く大きくなれよって。どちらかというと、子供の遊びに付き合うのは苦痛なんですよ。おれの遊びに子供を付き合わせるしかない。これが子供と付き合うコツですよ、オレ的な」。

 3男2女、5人の父である。上は19歳から下は6歳の幼稚園児。95年に元女優の公美さんと結婚すると同時に、いきなり3児の父になった。

 「君たちのお父さんはいるんだから、オヤジって思う必要はないって言いました。だけど恋だ愛だといっても、(結婚は)自分たちの感情だけでは進めない。最終的には子供がOKと言わないとあり得ない話だから。子供はどう思っているんだというのが、一番最低限のルール。子供は『いいんじゃない』って。じゃあ、ちゃんとしたくくりでスタートできるねって」。


ニュースで死…

 哀川家の教育方針は基本的なことだけだ。礼儀とあいさつをしっかりする、うそをつかない、人の物を取ったりしない、人を傷つけない。女手一つで育ててくれた母の影響が大きい。

 「うそつくなよというのも、人の物取るなというのも、人を傷つけるなというのもお袋が言ったこと。それ以外は何でもいいって」。

 海上自衛隊のパイロットだった父は訓練飛行中に事故で亡くなった。5歳の時だった。身重の母の代わりに長男である哀川が、叔父とともに遺体の確認を行った。午後7時のニュースで事故を知ったのを鮮明に覚えている。だが父の記憶はあまりない。怒られたこと、カブトムシを持ってきてくれたこと、魚釣りに連れて行ってもらったことぐらい。怖かったことはよく覚えている。

 「真冬に水ぶろの中に頭から突っ込むようなオヤジだから。無視して手を洗わないでお菓子にバクッと食いついたら、それは親として許せないでしょう。オレはやらないけどね。オレはオヤジが死んでるから、意識の中に残ってすごく良かったとは思っている」。


体育教師…挫折

 父の死後に移り住んだ鹿児島で少年時代はけんかに明け暮れた。高校では体育教師になりたかった。それを聞いた担任が「部活をちゃんとやれ、運動能力テストでAを取れ」と課題を出した。学校は休んでも、部活には行っていた。

 「部活は器械体操。中学で柔道をやっていて。地べたをはいつくばったような競技ですから、華麗に跳んでるのがすごくよく見えてね。『オレも飛びたい!』みたいね。2年と3年の1学期ぐらいまでやって、それからは陸上だね」。

 学校推薦で日体大に行くつもりだったが、人生を変える手違いが起こった。

 「(先生が)推薦してくれるっていうから、勝手に全部やってくれるんだろうと思っていた。入学願書どうしたんだ? と言われて。オレがボーっとしてたんですね」。

 願書提出の機会を失い教師になる夢は破れた。卒業後すぐに東京へ出た。

 「東京じゃないと意味がないと思ってた。体育の先生は木っ端みじんになってるわけだから、それで思ったね。やっぱり社長だなーって。社長になるしかねえなー、こりゃーって漠然とね」。


支えられナンボ

 専門学校に通いながら、ティーン誌のライターをやった。夜はリーゼントできめてディスコでたむろした。そこで知り合った仲間と「一世風靡」を結成。そして、「一世風靡セピア」時代の24歳、セピアの収入をもとに制作会社をつくり、念願の「社長」になった。レコード制作などを手掛けたが、社長は10年で辞めた。その後に臨んだのが、映画主演だった。哀川によると、主演俳優は「いくらでできるんですかというくくりでいくと、雇われ社長みたいなもの」という。「日本一の雇われ社長は内閣総理大臣だけど、無理かな」と話す哀川は、現在の主演という「雇われ社長」に生きがいを感じている。

 「いつも生きるか死ぬかぐらいの感じでやってますね。よければまた次があるし、だめだったら次はもうないしね。そこでなくなったからといってバタバタしてもしょうがない。いつもそういう気持ちでやってます。それが奇跡的に100本生んだというか、ぎりぎりでやってこれた。周りの人に支えられてなんぼですよ、本当に。『お前やれっ』て言ってくれないと成り立たないんだもの」。

 すがすがしい生き方を、てらいもなく実践する。そんな哀川を“アニキ”と慕う男たちが結集し実現したのが「ゼブラーマン」だった。100作目は、友情の作品でもあった。


4カ月間で100万語

 <マイベスト1> 100万語しゃべったこの4カ月間。人生最大にしゃべりまくったこの期間が、オレとしてはマイベスト1。「ゼブラーマン」が全国公開で、俳優でもあるし宣伝ということで、紙媒体で150ぐらい、テレビも20ぐらいやったかな。こんなことって、もうないかもしれないよね。そして本まで3冊(「翔、曰く」「百本締め」「白黒つけるぜ!」)出ちゃってビックリ。なかなかないよね。


 ◆一世風靡セピア◆ 東京・原宿のホコ天で話題になったストリート・パフォーマンス集団「一世風靡」を母体に84年「前略、道の上より」でレコードデビュー。89年解散。哀川翔、柳葉敏郎らを輩出。有名な掛け声「ソイヤ!ソイヤ!」が男臭い世界を象徴。


 ◆映画「ゼブラーマン」 市川新市(哀川)は、児童から冷めた目で見られ、家庭は崩壊気味の小学校教師。唯一の楽しみは、昔、7話だけ放送されたヒーロー「ゼブラーマン」のコスチュームを着ること。その格好で街へ出たある日、新市は偶然出会った怪しい男と乱闘に。人間に寄生した宇宙人が地球侵略をもくろんでおり、新市が倒したのは宇宙人だった。やがて新市は、本物のヒーローとして悪に立ち向かう。三池崇史監督、脚本宮藤官九郎氏。


 ◆哀川翔(あいかわ・しょう) 1961年(昭和36年)5月24日、鹿児島県生まれ。84年、俳優柳葉敏郎らと「一世風靡セピア」を結成しデビューするが、89年に解散。その後は主に俳優として活動する。88年TBSドラマ「とんぼ」、89年映画「オルゴール」で注目を集める。主演デビュー作は90年の東映Vシネマ「ネオチンピラ 鉄砲玉ぴゅ〜 高橋伴明監督作品」。Vシネマを中心に、97年カンヌ映画祭でパルムドール(最優秀作品賞)を獲得した「うなぎ」や03年「木更津キャッツアイ」など幅広く出演。178センチ、血液型AB。


(取材・近藤由美子)

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